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2003年6月

2003/06/29

6.物欲の夏

 こないだの月曜日に髪を切ってきた。もう2ヶ月くらい切っていなかったし、ここのところ急に暑くなってきたので、なにか急に鬱陶しくなってきたのだ。それからパーマがほどけて中途半端な髪型になってしまったせいもある。僕は昔から髪形が決まらないとすぐに憂鬱になってしまう性質なのだ。もう夏だからということもあって、今回はすっぱり短くしてきた。しばらく前から暑くなったらもっと短くしようと思っていたのだ。

 ところでここ1年くらいそういうことが多いのだけれど、美容室を出たあとというのは、何だか妙に嬉しくなっていろいろと予定外の買い物をしてしまうことが多い。特にこの日はカットだけでいつもよりも安く済んだせいもあって、みょ~に財布の紐が緩んでしまったのだ。これはいかん、いかんぞ。
 まあそうは言っても、もともと大した額は入っていないのだから、少々財布の紐が緩んだところで大したものが買えるわけではないのだけれど、でもそれはそれ、これはこれである。ちょっとリッチ&ハッピーな錯覚に陥った僕は、ブラブラとぶらつきながら上機嫌で横浜の街を見てまわっていた。まず最初はハンズ、それからその近くの雑貨屋、HMV、その上のビブレ、モアーズの中のサッカーショップ(マリノスのユニを買うかどうかしばらく悩んだが、長考の末今回もパス)、ABCマート、SHIPS、ユナイテッド・アローズ、ソニプラ、そごうの中の無印とLOFT……。正直歩いているだけで疲れる距離だが、ちょっと上機嫌だったのでそんなに気にはならず。土日じゃなくって月曜だったというのもよかった。やっぱり月曜日は人が少ないから。
 不思議なもので、髪を切ったあとというのはやたらに服が欲しくなるのである。本やCDはいらない。服といっても「夏なんだからTシャツにショートパンツにサンダルでいいじゃないか」というのはすごくあるのだけど、それでもちょっと気持ちが高揚しているせいか、みょ~に服が欲しくなってしまうのである。Tシャツなんて着てないのがうちにいくらもあるというのに、まったくこれはいったいどうした作用なのだろう??

 実はこの3日前の金曜日に、僕は同じこの横浜に来ていた。もう1ヶ月も前からエミネム主演の「8 Mile」の前売り券を買ってあったのだが、生来ズボラな僕は、結局最終上演日になってからようやくバタバタと横浜まで出てきたのだ。やはり1300円をムダにするわけにはいかないから。たぶんこの性格は一生直らないだろうな。まあ別にいいんだけどさ。
 映画自体は良かった。事前の期待度が高い映画というのは往々にして期待ハズレに終わることが多いものだが、この映画はその期待を裏切らなかった。この映画のことについてはいずれその一部をここで書くことになると思うので今回は書かないけれど、映画を見ながら食べようと思ってカバンに忍ばせてきたパンの存在を映画が終わってからようやく思い出したと書いておけば、だいたいの感じは伝わると思う。

 さて、映画を見終わったあとはまだ少し時間に余裕があったので、ひさびさに横浜の繁華街をぶらついていたのだが、映画が良かった割には僕の気分はあまりすぐれなかった。理由は……たぶんあらかたお気づきだとは思うけれど、中途半端に伸びて鬱陶しくなったこの頭である。耐えかねて髪を切りに行くわずか3日前のことだったから、当然僕の頭は収拾のつかないヘンなことになっていた。正直それが理由で家から出たくなかったくらいだ。まったく僕は髪形ひとつですぐに憂鬱になってしまう。
 その日は金曜日の夕方だったせいか、通りにはやけに人が多かった。人が多すぎてまっすぐ歩けない。暑かったこともあって、多くの人はちょっと夏っぽい感じの露出の多い服を着ている。夏向けに髪を明るくしている人も多かったし、どこか全体に夏特有の浮ついた開放感みたいなものが漂っていた。僕の目には道ゆく人がみんなオシャレに見える。
 僕はそのとき、服装的には決してひどい格好をしていたというわけではなかったのだが、でもまわりの人たちに較べると、なんだか自分がひどくイケてないというか、ダメな人間であるように思えた。そこらを歩いている人たちがどこか自分のことを見下しているというか、自分がここにはふさわしくない人間であるような気がしてならなかった。どこか蔑まれているというか、居場所がないという感覚である。

 「まるであの頃みたいだな」と思ったのはそのときだった。この「あの頃」というのは、街に出るたびに道ゆく人すべてに見下されているような被害感を感じて、「こんな思いをするくらいならもう外には出たくないな」と感じるようになった5年ぐらい前の「あの頃」のことである。その時点では僕はまだ通院すら始めていない。深く生ぬるい泥の中だ。コールタールのようなぬかるみの中。あがいても悩んでも、声の限りに叫んでみても、どこにも行けやしない。
 金曜日の横浜の雑踏の中で、僕は不意にそういう感覚に囚われたわけだ。そんな気分はもう何年も味わったことはなかったというのに。なんというか、ちょっとしたデジャ・ヴュみたいな感覚だった。
 そして「あの頃と同じ」感覚を思い出した僕は、しばらく所在なげにそこらをブラブラしていたのだけれど、特に買い物はせずに、そそくさと横浜をあとにして電車に乗って家に帰った。なんとなく気分が晴れなかったし、それにこれ以上ここにいても仕方がないと思ったからだ。それにこんなみっともない頭じゃ買い物なんてとてもできない。

 その3日後の月曜日、僕はまた同じ横浜の雑踏(今日はちょっと人少なめ)の中にいた。
 髪を切って上機嫌になった僕は、喜びついでにあれこれ服を見ていたのだが、そのとき不意に、自分が3日前とは全然違う精神状態でいるということを発見したのだ。そういえば若くシャレた格好の人たちを見ても特に気にならない。劣等感も感じない。むしろ自分が彼らの一員になったかのようにさえ感じる。優越感とまでは言わないにしても、でもそれに近しい感覚だ。なんだかこの街全体が自分の居場所であるように感じられる。どこにいても気分がラクなんだ。
 考えてみれば、この3日間で変わったものは何もない。同じ街の同じ店、同じ通りに僕は立っている。変わったのは僕の髪形と心の持ちようだけ。それなのにこんなに違う。店員さんの表情や、まわりの景色の色彩までもが違って見えた。そうか、そうなんだ。そこで僕はひとつのことを納得できた。
 つまり、僕が「なんとなくイケてない、見下されている」と感じていたのは、他人がどうのこうのなのではなくて、本当に自分が自分を認められていなかったからだったんだ。よく他人の目っていうけれど、あれはある意味自分の目なのだ。他の誰でもなく自分が自分を肯定できていないから、他人が自分を責めているように感じるのだ。前からそうじゃないかと思ってはいたけれど、やはりあれは自分の意識が投影された「影」であり、僕は鏡に映った自分自身の姿を恐れていたのだ。ふうん、なるほどね。

 そんなことを考えてひとり合点がいった僕は、そのまま買い物を続けて結局1万円以上も散財してしまった。スタンド付きの鏡をひとつ(1900円)と雑貨屋で買ったスタンドラック(1000円。これは安い)、ユナイテッド・アローズで見つけたグリーンの半袖シャツ(6800円もした。高けーよ)、それから最後に、NOVAうさぎの柄のついたチープなTシャツが1枚(2900円。これは母にあげた)。ほんとはほかにも欲しいものがたくさんたくさんあったのだけど(いい加減サンダルも買わなきゃね。前のは吐きつぶして壊しちゃったから)、予算は限られているのでとりあえずここまででやめにする。

 それにしても今回、結局は自己肯定感なんだなあとあらためて思った。まあ自己肯定感があれば、ぱーっと散財してもいいのかと言われると、僕としては答えに詰まってしまうわけだけれど、まあそれはそれ、これはこれである。やっぱり人間ハッピーな方がいいじゃないですか。
 というわけで、ユナイテッド・アローズのバーゲンは7月3日からだよな、などと性懲りもなくネットでチェックしているしょうがないワタクシでした。でも、アローズでは金が足りなくて買えなかったものがまだいっぱいあったんだよ。うん。

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2003/06/22

5.It’s getting worse

 1年ほど前にネットで日記をつけていた。いまはもうやめてしまったけど、なんだかんだで結局半年くらい続いたから、なにごとも3日と持たない僕としては、なかなか続いた方だったと思う。
 それでこのまえその日記を読み返していたら、割かしおもしろいところがあったので、今回はちょっとそこから引用して載せてみる。もちろん「おもしろい」とはいっても、それは僕が読んでみて「ああ、なるほどな」と思ったことであって、一般的に見てどうなのかということは、僕にはわからないけれど。

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8月に入ってから少しずつ鬱になっていることに気がついた。
これは「落ちてる」という意味の鬱じゃなくて、なにごともつまんない、意欲が湧かない、興味が持てない、だるい、集中力なしといった意味の鬱のことだ。本来の意味での「鬱」。先月の下旬から何となく変だなとは思ってたんだけど、最近になってようやく気がついた。

この感じを表すのには、‘It's getting worse’ という表現がぴったりくる。
この ‘It’ は全体状況を示す ‘It’ で、何か特定の要因があってというよりも、全体状況がすこしずつ針路を変えて悪くなっているという感じに近い。
特定の要因ではなく全体状況がゆっくりと悪い方に流れていってるので、渦の中心にいる自分は何が起きているのかわからない。
こういうのは経験的に言ってちょっとやばい傾向だ。というのは、自分が溺れていることに気がつかない人間は助けを求めることもできないから。

思えばこういうのってひきこもりの入り始めの時の感覚と近い気がする。
自分でも何かが変だと感じるのだけれど、何がおかしいのかきちんと把握できないし、おかしいなおかしいなと思ってるうちに時間だけが経過していって、結果どんどん深みにはまっていく。
気がついたときには自分ひとりではどうしようもなくなっていて、まわりに人がいないので、助けを求めることすらできないという状態になっている。どうしようもない。お手あげ。

これはまずい。

自分が鬱に入っていることに気がついたきっかけは、焼肉だった。
ひさびさに焼肉の話があがったので、例によって企画(というほどのもんでもないが…)の仕切りをやっていた。みんなの都合のすりあわせとか、そういうことだ。
こういうことは嫌いじゃない。まあほかにやってくれる人がいないから自分がやってるようなもんだけれど、でもそれほど苦ではない。いろいろ電話かけまくって話をしてればいいだけのことだ。

でも、そうやって話を詰めているうちに、自分がこのやきにく話についてストレスを感じていることに気がついてしまったのだ。なんで自分はこんなことをやってるんだろうな、と。
だいたい考えてみれば、別に焼肉なんて大して食べたいわけではないのだ。自分で広げた話なのに、気がついてみたら楽しんでいなかった。しょい込んで自分を苦しくしてるだけだ。これはまずい。そのままにしておくともっと苦しくなる。早めに手を打たなければ。

……というわけで、ストレスになりそうなものは全部おっ放り出してちょっと楽になろうかと思っている。言い出しておいて放り出すのはかなりどうかだが、なにしろ自分のことがいちばん大事だから。傷口が開いてしまってからでは遅いのだ。

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 大事なところはここに書いてあるので、特に付け足すべきことはないと思う。もちろん、僕が自分で「おもしろいな」と感じたのは、

特定の要因ではなく全体状況がゆっくりと悪い方に流れていってるので、渦の中心にいる自分は何が起きているのかわからない/自分でもなにかが変だと感じるのだけれど、なにがおかしいのかきちんと把握できないし、おかしいなおかしいなと思ってるうちに時間だけが経過していって、結果どんどん深みにはまっていく。
気がついたときには自分ひとりではどうしようもなくなっていて、まわりに人がいないので、助けを求めることすらできないという状態になっている。どうしようもない。お手あげ。

 というところ。
 ひきこもりの入りはじめの時期のことというのは、それがいつからなのかが明確でないこともあって、なかなかうまく書けずにいるのだけれど、でも結局のところこういうことだったんじゃないかと思う。少なくとも僕の場合に関して言えば。
 読み返す機会というのはふだんあまりないわけだけど、でも日記をつけておくとたまに発見があっておもしろいもんですね。

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2003/06/15

4.ゴルフについて

 世の中には「ゴルフが嫌いだ」という人が少なからずいるわけだけど、どちらかといえば、僕はゴルフというスポーツがそれほど嫌いではない。実際にプレーしたことはないし、特にやってみたいとも思わないけれど、でもそれほどいやなもんじゃないよな、と思っている。えーと、僕はちょっとヒネクレているんでしょうか? 自分では、特にそういうつもりはないんだけどな。まあいいや。
 以前は僕も、若者にごくありがちな理由でゴルフというスポーツを敬遠していたのだけれど(ダサい、オヤジくさい、あの服が嫌……)、でも3年半ほど前に、父と一緒にあるトーナメントを1日かけて見てまわったあとには、ゴルフに対する僕の見方というのはそれまでとは大きく変わってしまったのだ。あ、ゴルフってのも結構おもしろいものなんだな、知らなかったよ、と。

 まず、ゴルフ場のコースというのは実に起伏に富んでいる。思っていた以上に立体的なのだ。テレビで見ている限りではぜんぜんそうは見えないのだけれど、コースにはかなりの傾斜がついていて(自然の地形なんだから当然といえば当然なのだが)、下りはともかく、上り坂になるとけっこうはあはあ言いながら歩くことになる。この時点でもうちょっとしたウォーキングである。
 コースも上下左右に激しくうねっているから、ゴルフという競技が「ただの玉入れ」などという単純で底の浅いものでないことは一目見たらよくわかる。実際に現場に立ってみて、「これはやったらはまっちゃいそうだな」と僕も思った。きっと奥の深いスポーツなのだろう。

 ゴルフのことが大してわからなくてもそれなりに楽しめちゃうというのも、ゴルフというもののいいところである。あるいはゴルフ観戦というもののいいところである。というのは、ゴルフ観戦というのは少し見方を変えれば、ちょっと趣向の変わったピクニックとして捉えることができるからだ。これは僕にとっても実に新鮮な発見だった。ゴルフのことがなんにもわからなくても、ただ木々の緑を眺めながらそこらを歩いているだけでじゅうぶん楽しめるのだ。
 ゴルフ場というのはたいてい人里離れた(…という言い方もなんですけど)土地にできているから空気もいいし、春や秋の天気のいい日に緑のまぶしい芝生の上で持ってきたお弁当を広げてのんびりお昼をたべるというのはちょっとほかでは得られない楽しみだと思う。まあ、雨の日とか寒い季節は、そんなのたまらないでしょうけどね(やる方もかなり辛いそうです)。

 僕がゴルフというスポーツを嫌いでないというか、「ちょっといいな」と思う理由のもうひとつは、ゴルフというのが実に孤独なスポーツであるという点にある。
 プレーヤーはいちどティーショットを打った以上、カップにボールを入れるまでそのプレーは終わらない。たとえ10打かかろうと20打かかろうと、100回打たされてみじめな気持ちになりながら「もうやめたい」と切に願ったとしても、自分がカップにボールを入れるまでは決してゲームを終えることはできない。誰もそれを肩代わりすることはできないし、いちどはじめたプレーを終わらせることができるのは、ほかならぬ自分だけなのだ。つまり実はゴルフというのは、あれでいて徹底的に孤独なスポーツであり、また僕の認識の中では、ゴルフという競技は人生というもののひとつの側面を如実に映し出した、ある種のメタファーなのだ。
 そんなわけだから、何かといってはすぐに接待や賭けゴルフなんぞをやりたがるおっさんというのは見ていてすごく腹が立つし、「そんなに賭けがしたいんなら雀荘にでも行けよ!」とでも言いたくなる。いますよね、そういう人たち。うざいです、はっきり言って。

 いまのところ僕は特にゴルフをはじめてみようという気にはならないけれど、でも一生に一度くらいは、親父とふたりでゆっくりラウンドしてみたいと思う。たぶん当分先の話になるとは思うけれど、でもそれができたら、その日は僕の人生の中でもひどくすてきな1日になるのではないかという気がするから。もっともそんなことは、まだ言ったことはないんだけどね。

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2003/06/08

3.リクルートスーツ

 この文章を書いている今日は5月19日の月曜日なんだけど、やはりこれぐらいの時期だけあって、街を歩いているとリクルートスーツを着た学生の姿が目に入る。電車に乗っていてもけっこう見かける。ここのところ外に出ないで家にいる日が多かったからわからずにいたのだけれど、そういえば就職活動の時期だったんだ。
 いま僕がいるのは、野毛山にある横浜中央図書館の4階閲覧室なのだけど(窓からはランドマークタワーが見えます。ここのところずっと曇っているので、上のほうは全然見えません。ちぇっ)、図書館の中にいてもそういう人の姿をときどき目にする。なんで就職活動中の学生がこんなところに?という気もしなくはないのだけれど、まあ調べ物か何かをしているのかもしれない。あるいはそこら辺の椅子にもたれて所在なげに新聞を読んでいるおじさんたちのように、あてもなくただぶらぶらとここで時間をつぶしているだけなのかもしれない。

 ところで、これはなぜかと聞かれても困ってしまうのだけれど、僕の目に入るのはだいたい、地味な化粧をして、グレーのスーツとスカートを着た女の子であることが多い(いや、男なんか目に入らないってば)。
 あるいはこれは毎日続く曇り空のせいなのかもしれないけど、彼女たちの表情はたいてい暗く、心なしかいくぶんうつむき加減に歩いているように見える。たぶんあまり成果が上がっていないか、そうでなければ、長く続く「スーツの日々」に飽いちゃっているのかもしれない。僕はもう28だし、彼女たちとは少しずつ歳が離れてきてしまっているけれど、でもそういう気持ちはすこしはわかる。僕も5年ぐらい前にそういう日々を送ったことがあるし、やはり着慣れないものを毎日着て歩くというのは、それだけでもけっこう気分が暗くなるものだから。

 自分の就職活動のことでひとつ思い出すのは、ある朝、鏡を見て服装をチェックした時に、なんだか自分がひどく小さく見えてしまったときのことだ。なぜかはよくわからないけれど、スーツを着ている自分の姿がひどく小さく、窮屈そうに見えた。それまでもそれに似たようなことは感じなくはなかったのだが、その日はとりわけ思えてならなかった。
 もちろん、ふだん着慣れないものを着ているわけだから、なんとなく不似合いだったりしっくりこなかったりというのはあると思う。誰だってそうだろう。松岡修造がコナカのCMで日々主張しているように、「最初はカッコだけでいいじゃないか」というのはごくまっとうな意見であるように思える。
 でも問題は、それがもう梅雨に入ってからしばらく経った、6月の半ば頃の話だったという点にあった。就職活動をはじめてからすでに数ヶ月が経つというのに、僕の「スーツの日々」は一向に終わる気配を見せなかったのだ。全然、まったく。どこにも受からない。
 そしてその日、鏡に映った自分の姿を見た僕は直感的に、「あ、これはダメかな」と思ってしまったのだ。それは何かの拍子にふっと感じた直感だったけれど、でもそれは同時にひとつの確信でもあった。いくらなんでも3ヶ月も経てばスーツだってそれなりに似合ってくるし、それに少なくとも、Tシャツにジーンズでいる時の自分の姿はこんなに小さくない。もっと大きく見える。たぶんきっと、自分はこういうのに向いていないんだろう。

 もちろん他人のことはなんとでも言えるわけだけど、でもいま彼女たちの姿を見ていると、「なんだか似合ってないな」と思う。気の毒だけど、彼女たちの姿というのは、普段着でそこらを歩いている女の子にくらべてどことなく小さく見えるし、他人事ながら「彼女たちの就職活動はうまくいくのかな」などとちょっと心配になったりもする。ちょっと声をかけてみたいような、やっぱりかけたくないような、不思議な気持ちになる。
 僕はあれからしばらく経ったある日に、あきらめて自分の会社めぐりを中断したのだけれど(そして、中断された僕の就職活動は二度と再開されることはなかった)、もしかしたら彼女たちの就職活動もそれと似たような経過をたどるのかもしれない。あるいはうまくどこかに入社が決まって、彼女たちの顔には明るい光が――まるで梅雨が明けたあとの夏の陽射しみたいに――戻ってくるのかもしれない。それは僕にはわからない。まあ、早く夏が来るといいんだけど。

 彼らの姿を横目で見ながら、あれからもう6年が経ったんだなあ、と僕はあらためて思う。そうか、もう6年も経ったのか。
 僕はいまでも自分の問題が「終わった」とは感じていないけれど、でも以前のようにリクルートスーツの学生を見て言いようのない焦燥感にとらわれたり、ひどく胸が苦しくなったりというようなことはすっかり薄れてしまった。それは僕が以前に較べて気持ち的にずっと楽になったからでもあるし、また、歳がかさんで人生における選択肢がだんだんと狭く少なくなってきたからでもある。だって、いまさら新卒学生と一緒に就職活動をするってわけにもいかないしね。彼らと同じようなコースをたどることは、もうできないんだ。

 彼らの姿を見ていると、どことなく寂しい気持ちになることがある。もちろんあのときのことが懐かしいわけではないけれど、でも何となくそういう思いにとらわれることがある。もっとも僕は、いまのところあの堅苦しいスーツなんぞを着なくていい生活を送っているので、それについていえば結構ハッピーなのだけど、でも、なんとなく。

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2003/06/01

2.AV女優

 もう1年ぐらい前の話だけど、AV女優というものをはじめて生で見た。近所のTSUTAYAで神谷沙織という人のサイン会があることをたまたま知ったので、冷やかしがてら出かけてみたのだ。……とはいっても、僕は特に彼女のファンというわけではないし、そもそもAVというものをほとんど見ない人なので、顔を見に行っただけで、握手したりサインをもらったりとかいうことはしなかったんだけれど(いや、ほんとだってば)。
 実際にサインをもらったわけではなかったので、その姿はちょろっとしか見なかったのだが、ぱっと見の印象は、芯が強そうで堂々としているという感じだった。シャープで、わりと場慣れしてる。パッケージの写真の雰囲気では、天然ふうの「かわいい系」のように見えたのだが、実物の印象はどちらかといえば美人系で、またその堂々とした印象からは、なんだかある種の貫禄のようなものすらうかがえた。

 で、これを書くのはちょっと恥ずかしいのだけれど、実際に彼女を目にした時、思っていたのとだいぶ印象が違ったので、なんだか妙に気圧されてしまった。あの毅然とした態度はいったい何なのだろう、と。
 ほんの少ししか見なかったけれど、どう見てもあれは媚びたりへつらったりしてるような態度ではない。背すじがピンと伸びている。さっきプロフィールを見たら身長が158とあったけど、僕よりちょっと低いくらい――たぶん163くらい――はあるように見えた。まあこの手のプロフィールというのはもともと当てにならないものなのかもしれないけれど、でも僕の言わんとしてることはわかってもらえると思う。

 しかし考えてみれば、彼女はまさしく体を張った仕事をしてるんだよな。そういう生き方をしている人というのはああいうオーラみたいなものを醸し出してるもんなのかなあ、などと思った。カメラや大勢の人が見ている前で裸になってセックスして、それが商品になって……っていうのを仕事にしてるんだから、それくらいタフでないとやっていけないのかもしれない。ビデオのパッケージや男の幻想の中によくあるような、清純そうでナイーヴな「おんなの子」ではいられないのかもしれない。そしてAV女優という人たちは、多かれ少なかれみんなそうなのかもしれない。
 まあそれはそうかもしれないな。なにしろああいうのは、「男が求めるもの」を売っているのであって、リアルな現実そのままを提供しているわけではないのだから。

 さて、こんなことを書くと褒めすぎとかうがち過ぎとか言われるかもしれないけれど、でも彼女の放つ毅然とした印象は、こういう仕事を主体的に選んでいるということが醸し出す自信というか、覚悟みたいなものの表れなのではないかという気がした。借金のカタに吉原に売られて……なんていう一昔前ならいざ知らず、こと現在においては、AV女優という職業は人生における主体的な選択でもあるのだから。おそらく、彼女はそうすることを自ら選び取っているのだろう。あるいは違うかもしれないけれど。
 もちろんたった一人のAV女優を、それもごく短い時間見ただけだから、これがすべての人に敷衍できることだとは思わない。あるいはひょっとして、彼女はごく特殊な部類に入るということだって考えられなくはない。AV女優っていっても、べつにごくふつうの女の子と何も変わらないんですよー、とか。
 でも、彼女のあの毅然とした姿を思い返すたびに僕が心に抱くのは、一種の気後れというか、何か恥ずかしさにも似た感情だ。果たしていま自分はどうなんだろう? もしくはこれから先、自分はああいう目をして生きていけるのだろうか? 彼女のように堂々と背すじを伸ばして歩いていけるだろうか? そういうことについて考えだすと、正直言って僕には自信が持てない。全然持てない。

 たまにビデオ屋のアダルトコーナーに立つと、どこの店の棚にも数えきれないほどのビデオが並んでいる(そうですね?)。そしてそのビデオの山を目にするたびに、僕はすこし複雑な思いにとらわれることになる。その中には本当にたくさんのAV女優の姿があるわけだけど、考えてみれば、彼女たちというのはまだ18とか19とか、あるいはせいぜい二十歳やそこらなのだ。そして僕が見た神谷沙織というのは、この中では幼くて天然ふうの「かわいい系」なのだ。
 だから、僕がビデオ屋の棚の前に立ってしばしのあいだ考えることというのは、「今日はどの娘にしようかな」ということではあまりなくて、「この娘たちというのはみんなあんな感じなんだろうか?/みんなあんなふうに自分を持って生きているんだろうか?」ということなのだ(いや、ほんとだってば)。
 そしてそういうふうに考えてみると、なんだか自分が救いようもなく未成熟で無価値な人間のようにも思えてくる。もちろんそうは考えたくないんだけど、でもそんな気がしてくる。おれはこんなところでいったい何をやってるんだろう?と。
 うーん、そんなことを考えるのは、やっぱり僕だけなのかなあ??

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