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2003/08/24

番外編:『ひきこもるという情熱』批判

 今回載せる文章は、とある「ひきこもり」系の雑誌に投稿されたものである。
 雑誌といっても、一般の書店に並んでいるようなメジャーなものではなくて、発行部数も限られている小さなものなのだが、この雑誌(やはり誌名は伏せておいた方がいいだろう。ただ、誤解されるとまずいので、「とあるフリースクールから生まれた方の」とだけ書き添えておく。ちょっとバレバレになっちゃうけど)の大きな特徴は、「ひきこもり当事者の立場から声を伝えていきたい」という趣旨の下に、ひきこもりの当事者たちの手によって作られているという点にある。
 いまでは「ひきこもり」もだいぶメジャーになって、多くの人が「ひきこもり」についての意見を発信するようになったけれど、しかし当事者側から発信されている意見というのはまだそれほど多くない。そういう意味では、たとえ小さな雑誌とはいえ、ひきこもりの当事者たちの手でこうして自分たちの声を発信していくというのは、「ひきこもり」というものを考えていく上で、大いに意義のある試みだと僕は思っている。

 さて、ここに載せた文章は僕がその雑誌に投稿したものなのだが、入稿後1ヶ月半が経った時点で編集局の方から「掲載見送り」という通知をもらい、そのまま行き場所がなくなってしまったものである。
 はじめにこの原稿を編集局に送った時点では、特に問題なく載せられそうという話だったのだが、それから6週間が経ってそろそろ発行かという頃になって、急に「掲載見送り」のメールをもらうことになってしまった。入稿後しばらくならばともかく、だいぶ時間が経ってからの断りの知らせだったので、僕としては少々驚いたし、どうして急にそのようなことになったのかが知りたくて、編集局宛てに不掲載の理由の説明を求めるメールを送った。
 編集局からはしばらく音沙汰がなかったのだが、それから1ヶ月が経ち、もう返事は来ないものとほとんど諦めかけた頃になって、ようやく編集局からの回答をもらった。そのメールによれば、僕の原稿を載せると雑誌としてのスタンスを誤解される恐れがあり、雑誌の編集方針とそぐわないので不掲載としたとのことだった。ふうん、そんなものかな。まあいいや。誤解される恐れがあるというのなら、誤解される恐れがあるのだろう、きっと。
もちろん、何を掲載し何を外すかの決定は編集局が下すことであり、その権限は編集サイドにある。当たり前だ。だから僕の書いたものが掲載されなかったことについては、残念には思いつつも異議を唱えるつもりはない。しかし編集局から送られてきたメールを読んでいて、僕の中にはどこか釈然としない感覚が残った。どこがどうとはうまく言えないのだが、でも何かが腑に落ちなかった。
 いや、印象論ばかり並べていても仕方がないだろう。しかしひとつだけ明確な疑問点がある。それは、「なぜ、すでに下された判断の説明をするのに1ヶ月以上もの時間がかかったのか」という点である。どうしてそんなにかかったのだろう。よくわからない。

 憂鬱だ。
 なんで僕はこんなことをうだうだと書いているのだろう。

 実を言えば、このような種類の文章をこの「ねじまきラジオ」に載せることにはあまり気が進まなかった。理由はふたつ。
 理由の第1は、僕はこのエッセイを書くにあたって、あえてひきこもりそのものについては書かないということをひとつの決め事としてスタートしたからだ。あえてひきこもりそのものについては書かないとした理由については、少し込み入るのでここでは触れないが、とりあえずは、あまり「ひきこもり」というものにかかずらい過ぎたくないという気持ちがあったから、とだけ書いておこう。
 そして理由のふたつめは、僕はいわゆる批判文というものがあまり好きではないという点にある。世の中には誰かの主張や姿勢に対する批判文のたぐいが溢れているわけだけど、僕はその手のものがどうも好きになれない。そういう文章というのは目にしているだけでもどことなく気分が悪いし、行為としてあまり生産的ではないように感じられる。ただの水かけ論みたいに見えるし、その力をもう少しほかのことに振り向けた方がよいのではないかという気がついしてしまう。

 しかし困ったことには、ここで僕が書いた文章というのは、その「誰かに対する批判文」なのだ。僕は一方で批判文のたぐいは好きになれないと思いながら、他方ではこうして誰かに対する批判の文章を書いている。その事実に向き合うたびに、僕は自分で自分にげんなりしてしまう。内なる自分が僕に向かって、「おい、おまえ言ってることとやってることが違うじゃんよ」と糾弾してくる。そして僕はそれに反論することができない。沈黙。そして憂鬱。
しかし言い訳するわけじゃないのだけど(結果的にはろくでもない言い訳でしかないかもしれないが)、これは書かれなければならない文章だったのだ。
 本文でも書いたとおり、芹沢氏の主張には危険な部分が含まれているように僕には思える。そして芹沢氏とその周辺にいる人たちは、その危険性についてまるで気がついていないように見える。杞憂といわれるかもしれないが、もし氏の主張がより大きな形で展開されるようなことになれば、これは非常に怖い事態になるような予感が僕にはある。僕としては、できればそのようなことにはなってほしくないし、当事者(経験者)の立場から氏の主張に対してはっきりと異議を唱えることには、それなりの意味があるのではないかと感じている。

 わざわざ雑誌への投稿ということをした背景には、これをひとつの問題提起として、芹沢氏の主張の妥当性(あるいは危険性)ついて考えるきっかけになってほしいと期待したからだ。しかしその僕のささやかな問題提起は、結果的にその発表の場を与えられなかった。僕のこの思いが伝わらなかったことは非常に残念ではあるけれど、まあ仕方がない。それがあちらの「編集方針」なわけだから。
 しかしそうは思いつつも、僕は芹沢氏の主張が結果的にもたらしかねない危険性について、このまま見過ごすことができない。芹沢氏の一見耳障りの良い主張(氏はひきこもり肯定論者であり、彼の主張は、ひきこもりの当事者からすれば歓迎したくなるようなものであるはずだ)の裏にある落とし穴みたいなものについて、指摘しておかないわけにはいかない。なぜかはよくわからないけど、でもただそう思うのだ。

 しかしながら、雑誌への掲載を断られたいまとなっては、僕はこれを出せそうな適当な媒体をほかに持たないので、いささかの不本意を抱えつつも、とりあえずの対処としてこの場に載せることにした。少しでもものを書いたことのある人ならわかると思うけど、せっかく書いたものがどこにも出せずに終わるというのは、書き手にとってはひどくフラストレーションの溜まることである。また、ここで書いたことはより多くの人に読まれるべきなのではないかという漠然とした思いもあって、この場を使ってささやかな発表を試みることにした。
 もしこのささやかな発表が小さな波紋を起こすことができたなら、僕の努力も少しは報われたことになるだろう。

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 ■ 芹沢俊介『引きこもるという情熱』 感想文

 あるいはこういうのは実も蓋もない言い方なのかもしれないけれど、でも妙にかったるい本だった。なぜだかわからないけど、読んでいる間ずっとかったるくてかったるくて仕方がなかった。 

 なにしろ書いてあることが頭に入ってこないのだ。目は字づらを追っているのだけど、本の内容は頭の上を素通りしていくばかりで、気がつくと、ページを繰る手は止まったまま全然関係のないことを考えていたりする。ふと気がついて本に目を戻すのだが、しばらくすると意識はまたあらぬところを彷徨いはじめる。そしてまぶたが重くなる。そんなことが延々続いた。決して分厚い本ではないのだが、でも一向にページが進まない。
 いや、この本は特にむずかしいことを言っているわけではない。文章が難解なわけでもそれほどない。むしろまずまずわかりやすく書いてある方だと思う。しかしそれにもかかわらず、この本の内容は僕の頭にはまるで入らず、おかげで読み終えるのにひどく時間がかかってしまった。
 そしてそんなふうだったから、この本を読みながら僕が考えていたことは、芹沢さんの言っていることが正しいのか正しくないのかということではほとんどなくて、「どうしてこの本はこんなに読み進まないんだろう?」ということばかりだった。それがこの本に関する最初の印象である。

 はじめはただ単に自分の集中力が欠けているだけなのだと思っていた。そういうことって、たまにある。何かの加減で意識が散漫になってしまって、集中力が持続しないのだ。でも問題は、何度読み直してみてもそのたびに頭がぼおおおっとしてきて、結局いつまでたっても読み終わらないし内容もろくに理解できない(理解できないままページを繰らざるを得ない)ということだった。……ということは、たぶん集中力の問題ではないのだろう。
 次に考えたのは自分自身の理解力の乏しさについてだったが、この本をベッドの上に放り出している間に何冊かの本を読み終えることができていたし、中には止まらなくなってひと晩のうちに読みきってしまった本も二冊ばかりあったから、その線は外してもよさそうだとの結論に落ち着いた。「ここのところひきこもり本に飽きていたから」ということも考えたのだが、放り出している間に読んでしまったもの中にはひきこもりがテーマのものもあったから、その線も理由としては考えにくかった。
 芹沢さんの文章のリズムの悪さ(不必要な改行の多さや難解な用語など)については読んでいる時からずっと気になっていたのだが、どちらかといえばそれは周辺的・付属的な問題であるように感じられた。多少リズムが悪かったとしても、いいことが書いてあればそこだけぱっと目に飛び込んでくるものだ。それもあるかもしれないが、でもこれが中心的な原因だとは考えにくい。

 おそらく、芹沢さんの書いていることは概ね正しいのだろうと思う。でもその「正しさ」は、はたと膝を打って「そうだ、そうなんだよ」と深く頷いてしまうような種類のそれではなくて、どちらかといえば高校の退屈な授業を聞かされている時のような、「そりゃそうだろうけどよ」とでも言ってしまいたくなるような種類の「正しさ」だ。少なくとも僕にはそう思えた。彼の主張はたぶんそれなりに正しいのだろうけれど、でもそれは昼休みあとの授業の内容のように教室の中を空しくこだましていくばかりで、腹にどすんと染みてくるということがないのだ。
 確認。僕がここで問題にしたいのは、芹沢さんの主張が正しいのか正しくないのかということではなくて、その「正しい」はずのものが僕に対して訴えかけてこないのはなぜなのか、ということだ。

 先に僕なりの推論から言ってしまえば、芹沢さんの主張というのは結局頭の中だけで考えられたことだから、それがどんなに「正し」くとも腹の中にまでは響いてこないのだ。彼の言っていることは何となくわかるし、おぼろげな理解はできる。でも結局は机の前に座って頭だけで考えたことだから、腹に染みてくるような説得性を持った深い理解にはならないのだ。僕はそう考える。
 何というか、彼の主張というのは自分の体験や経験から絞り出されるようにして得られた結論ではないため、どこか頭でっかちというか上滑りというか、「机上の空論」的に空疎に響いてしまうのではあるまいか。あくまで印象論なのだが、どうも彼の文体にはフィジカルな雰囲気というものが感じられないのだ。悪い言い方をすれば「学者さん」的だし、理論か実践かという観点で言えば、まず間違いなく理論の方に入るだろう。まあ良くも悪くもインテリなのかもしれない。
 インテリであることがいけないとは言わない。でも僕の個人的な好みを言わせてもらえるならば、どちらかというと僕は理論(頭)よりも実践(体)タイプの人の方が好きだ。これは僕自身が実践タイプだから実践派の人の方により多く共感を抱くということではなくて、むしろ頭でこねくり回してしまうタイプだからこそ、自分に足りない要素を持った人に惹かれるといった方が近い。そしてそういう見地から言えば、僕にとっては芹沢さんのようなタイプの人よりは、もっと実践的な人――たとえばタメ塾の工藤さんみたいな――の方に惹かれるのだ(ちなみに、工藤さんの話をじかに聞いてみてわかったのは、この人にありがちな「戸塚ヨットスクール」といったイメージは大きな誤解であるということだったが、本題から逸れるのでここでは割愛)。

 さて、大変失礼ながら、工藤さんはあまり「インテリ」とは呼べないと思う。まず横文字やむずかしい言葉がわからないし(「おれはほら、『定義』とか、難しいことはわかんないから(笑)」〔工藤定次×斎藤環『激論!ひきこもり』28頁〕)、話を聞いていてもその説明はいまひとつ要領を得ないことが多い。
 でも、実際に工藤さんの話をじかに聞いて感じたことは、この人の言葉にはどこか確かさの感覚があるというか、「この人なら何となく信じられるかな」ということだった。彼の主張が正しいか正しくないかとは別に、また話が上手かどうかとは別に、タメ(工藤)さんの言葉には何か経験や実感に根ざしたフィジカルな説得力のようなものが感じられるのだ。これは頭だけではなく、体全体を使って得た知識とでも言うべきか。そういうのは、肉体労働者が放つある種の迫力に似ているかもしれない。おそらく、タメさんには「インテリ」にありがちな変な小賢しさみたいなものが希薄で、裸で勝負せざるを得ない分、何かが相手の心にまっすぐ届くのだろう。そんなことを考える。

 頭だけで考えることならひきこもっている間にもう充分やってきた(ひきこもりの人は大概そうだろうが)。
 そしてその結果得られたものはといえば、「頭だけで考えていても結局ダメなんだ」という一種の悟りというか、諦念でしかなかったから、僕にとってはもうそういう「頭だけ」のものにはさほど興味を惹かれないのだ(もちろん、その諦めがあったからひきこもりから抜け出ることができたのだということについては肯定しておきたい)。そしてもっと言えば、そういう図式的観念的思考に根ざした主張というのは、それがどんなに正しくとも大した力を持ち得ないのだ。僕はそう思う。

 それから本の内容について少し。
 芹沢さんは、ひきこもり問題に取り組む精神科医やカウンセラー、民間の援助職にある人らを指して「引きこもり引き出し人」として批判しているが、この考え方はいささか問題があると思う。
 ひきこもりがこじれてしまったケースにおいては、すでにひきこもりの悪循環過程に入り込んでしまっていて、本人や家族の力だけではどうしようもなくなっていることが多いのだ。そのことは芹沢さんもよくご存知だろう。そしてそういうケースにおいて第三者による援助を否定することは、そのひきこもり状態を放置し、さらに悪化させることにつながるのだ。軽度の場合はともかく、年単位で長期化してしまったケースにおいては、ある程度の介入という選択肢をはじめから否定的に見てかかるというのは――もちろん、本人の意思を無視して、恫喝まがいのやり方で引きずり出すようなのは論外だけど――やはり危険な考え方であると僕には思える。
 それからもう一点。芹沢さんの唱える「往路・滞在期・帰路」のプロセスは、考え方のモデルとしてはおそらく正しい。そのプロセスを辿ることができれば、芹沢さんが主張するように、ひきこもりはその人にとっての「必然性を帯びた人生の一コマ」たり得るだろう。それには僕も同意したい(僕は自分のひきこもりには意味があったと思っている人間のひとりだから)。
 しかし、この主張はやはり理想論だ。理想論であり、ひきこもりという現象の比較的幸運な部分だけを抜き出した一断面に過ぎないと思う。安心してひきこもることのできる「滞在期」を誰しもが獲得できるわけではないし、むしろそれができずにいるからこそ困っているのだ。
 芹沢さんは「(ひきこもりには)はじまりがあり、終わりがある」と書いているけれど、そうとは限らないと思う。気の毒だけど、「はじまりはあっても、一向に終わりが見えてこない」という状態にはまってしまったケースや、不幸なことに最悪の結末を迎えてしまったケースだって少なくないはずだ。ひきこもりを肯定的に捉えたい気持ちはわかるけど、しかしそのことがもたらすかもしれない危険性についても、やはり視野に入れておくべきであると僕は考える。

 「正しく」ひきこもれる人はまだいい。<いろいろ回り道もしたけれど、あの時間は決して無駄ではなかった。あの経験から得たものだってたくさんあった>と考えられるから。
 でも、それが声高に叫ばれすぎると、そうできない人たちが切り捨てられてしまうのではないかという危惧を僕は抱いている。うまく言えないのだけど、たぶんそれは、ひきこもりからの生還者や「正しい引きこもり」の存在が、結果的にその対岸にいる当事者たちを抑圧し、「ひきこもり」にすらなれなかった二重の意味での「落伍者」をつくり出すことになるのではないかという薄ら寒い予感だ。そしてそう考えると、僕だっていつ「加害者」の側にまわったとしてもおかしくないのだ。彼らの背中をぽんと押して崖下に突き落とすという可能性を完全に否定することは、たぶんできないのだ。
 もちろん僕だってそんなことは考えたくない。「悲観的に過ぎる」という批判だってされるかもしれない。でも、そうなる可能性については、やはり自覚的でありたいと思っている。あるひとつのことがらを一面的に捉えたがるイノセントで無自覚な姿勢が、ある時から無慈悲で救いのない暴力へと転化してしまう可能性を、僕は否定できないから。

 [筆者註]:
 この文章は、いちど書き上げたものを、時期を開けてから加筆修正したため、前後で文章のトーンが違うというか、流れがちょっと変なふうになってしまいました。自分で「自己矛盾を起こしてるのでは?」と思う部分もなくはないのですが、うまく修正できなかったし、僕が抱いている迷いやもどかしさみたいなものも含めていちど自分の中で整理されるべきなのではないかと考えて、あえてこの不完全な形のままで出すことにしました。それほど変でなければいいのですが、正直言ってあまり自信がないです。(この箇所を含め、すべて投稿時のまま)

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コメント

ずいぶん古い記事にレスしますが。。
これ僕も読みました。芹沢さんはひきこもること自体よりも世間の要求に動かされ操られるだけの不本意な一生の方を真に問題にしているのではと思いました。教育やしつけによって奪われた本来獲得するはずだった自己の主体性、結果だけに拘ればそれは危険な賭けのようですが一つの生として見た場合、結果はどうあれそれはそれでいいのかもしれません。ひきこもりという強烈な単語を通して見るとそれ自体の社会的問題が大きく大変危険な書物に見えますが、現代人が自身を取り戻す為のメソッドと考えるとある程度評価できるように思いました。

投稿: | 2010/08/28 20:14

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