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2004/01/04

26.「しんどさ」ってさ

 ここのところ自分で何が気に入らないって、目に力がないことだ。

 もちろんここ数ヶ月の不調で、自分でいろいろ気に入ってないところはほかにもいくつかあるんだけど、その中からひとつを選べって言われたら、やはりなんといってもこれだと思う。目に力がない。鏡を見ていて「何かが違うな」って感じる。だから鏡を見るたびに自分で自分にげんなりしてしまうことになる。まったく生気のない目をしてるよなあって。
 断言してしまうけど、まえはこんなんじゃなかった。自分で言うのもヘンかもしれないけど、もっと力のある目をしてたと思うし、また実際そう言われた。それを言ってくれたのは、とある親の会に参加していた親御さん(お父さんだった)。それまではそんなことは全然考えたことがなかったのだけど、実際にそう言われてみたらなんだかひどく嬉しかった。嬉しさがあとからあとからこみ上げてくるような感じだった。自分のやってきたことは間違いではないんだと思えた。

 以来、「目に力があるかないか」ということをだいぶ意識するようになった。鏡を見てなんか変だなあと思ったら、それはどこかで流れが澱んでいるのだと考えるようになったし、そういうときには自分で少しく目に気合を入れるようにした。果たしてそれで効果があったかどうかというのはいささか疑問だけど、ものごとを判断する基準としてはそれほど間違ってはいなかったと思う。そう、目というのは本当に口と同じくらいものを言うものなんだ。よく言われるように、目を見ればその人が自分に自信を持っているのかそうでないのかというのはあらかた察しがついてしまう。目っていうのは本当に雄弁だし、正直だし、ときには残酷でもある。残酷。

 ともあれそんなわけで、最近鏡を見るのが苦痛である。去年の11月くらいからは、鏡を見ていて自分で自分に納得できたためしはほとんどないし、あまりにもそういう状態が長く続いているのでもうなんだか半ば慣れてしまって、最近では「もうひどくなければそれでいいや」みたいな投げやりな感じで鏡に向かうことが多くなった。それはさすがにまずいんじゃないのと自分でも思うのだけど、しかしなかなかそういう流れを止めることができずにいる。
 そして残念なことに、また当初の見込みどおり、まだあと2~3ヶ月のあいだはこういう状態が続きそうであります。そういうのはだいたい自分でわかるんだ。おそらく自分なりに、ささやかな転機に差し掛かっているのだろうなという予感めいたものがある。一種の曲がり角というか。
 だから正直言って、ここのところ毎日がしんどい。胸のあたりがぐーって締めつけられるような感じがするし、抗不安剤のたぐいが手放せない。まったくいったいいつまでこんなのが続くんだろうと自分でも思う。

 でもさあ、こういうしんどい時期にこういう自分を不利な立場に追い込むようなことを言うのはヘンかもしれないけど、この手の「しんどさ」なんて、ひきこもりや元ひきこもりに限らず、誰にでもあるんじゃないかな。「ひきこもりの当事者・経験者である」というだけで、この界隈の人はひきこもりに優しかったり、妙に持ち上げて扱うみたいなところがあるけれど、でも何かしらの「しんどさ」を抱えてるのは、いわゆる「ふつうの人」だって一緒やんということを最近思わないでもない。てか、そういうことをこないだちょっと言われた。そしてそう指摘されて納得できてしまう部分は、残念ながら、ある。
 こういうことを言うとこの界隈では、それこそ「世間の価値観に毒された反動」みたいに言われがちなんだけど、でもひきこもり(いわゆる「できない人」)を擁護・肯定する一方で、いわゆる「ふつうにできてる人」の抱えてるしんどさみたいなものがひどく見過ごされてきたのかもしれないなあとも思う。いわゆる「まっとう」な道を歩いている人だって、それなりの「きつさ」は持ってるんじゃない? ひきこもりである(であった)ということはそんなに悲劇的で特別なことなんだろうか?って。
 もちろんいまさら、世間にありがちな「ひきこもりは甘えである」的“正論”に傾くつもりは毛頭ない。毛頭ないけれど、でもひきこもりや元ひきこもりの人の抱えてる「きつさ」と、いわゆる一般世間で「ごくふつうにやれてる」人が抱えてる「きつさ」を並べて比較してみたとき、ひきこもり側の人の抱えてる辛さの方が大きいなんてことがそう簡単に言えるのかなあというと、正直僕は答えに詰まってしまう。

 そんなわけで最近では、「ヒキ」(嫌な表現…)と「ごくふつうにやれてる人」を区別して考えるのってあまり意味がないのかなーということも考えたりするし(もちろんそれぞれが抱えてる「きつさ」っていうのは、かなり性格の異なるものではあるのだろうけれど)、まして「ヒキ」と「偽ヒキ」を区別して、お互いがお互いを非難しあうなんてのは、わりに不毛な行為なんじゃないかということも思うようになった。べつにひきこもりに限らず、障害者やトランスジェンダーの世界にだって、「ヒキvs.偽ヒキ」みたいな現象は起きているらしいし。乱暴な言い方であるというのを承知の上で言わせてもらえば、そんなの目くそ鼻くそなわけで。
 もっとも、僕がこういうことを言うのは、僕がいわゆる現役バリバリのひきこもり当事者からは少し離れたところに来てしまったからではないかとも思う。「おまえは現場を見てないからそういうことが能天気に言えるんだよ」ってなお叱りをあちこちから受けるかもしれないし、こんなことを書いたら一部の人たちからは結構なバッシングを受けてしまいそうなのであまり気が進まない面はあるんだけど、でもやっぱりそう思う部分はあるわけです。「できる人」の辛さが「できない人」の辛さより軽いだなんて、そんなに簡単に言えるの??って。

 それと僕がもうひとつ考え、そして気持ちの中に抱くのは、「ひきこもり経験者」というだけでわりにちやほやされるという環境に自分は慣れすぎてしまったのではないだろうかという罪悪感もしくは、そこにある種の甘えが存在していたのではないかといううしろめたさみたいな感覚である。きっとこの界隈には自分の経験を語れる人がそれほど多くないからこういうことになるのだと思うが、しかしそういう環境に慣れすぎてしまうと、結果として自分がスポイルされて、あとあともっと苦しみの多い袋小路に入ってしまうのではないかという予感がしないこともない。

 これはこないだある人と話しててすごく意見が一致したことなんだけど、ひきこもりってぬるま湯なんだよね。もしこれが熱湯コマーシャルみたいな激熱の環境ならば、反射的に外に飛び出ていくんだけど、「ひきこもり」もしくは「ポストひきこもり」の状態というのはそうではない。たしかに苦痛や葛藤は感じているんだけど、「でもこのままここにおれんこともないかあ~」的中途半端さというか、一種の居心地の良さを感じている面も確実にあると思う。ぬるま湯ではあっても、熱湯風呂ではないんだ。そこがひきこもりの特徴というか、怖いところなんじゃないだろうか。
 ゆえにその「居心地の良い」環境に慣れすぎてしまうと、おそらくは骨が溶けるみたいにしてずぶずぶと底なしの沼に引きずりおろされてしまうことになるのだろう。正直言って僕としてはそういう先行きの暗いことはあんまり考えたくない方なんだけど、でもたぶん事実なので、少しずつその冷酷な現実に向き合うようにしている(いちおう気持ちだけは)。危機感を持たなすぎるのって、それはそれで危険だからね。少なくとも僕は、ここでこのまま腐って死にたくはないと思っている。

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