« 28.棚の上の命題Ⅱ | トップページ | 30.呪 [spellbound] »

2004/01/25

29.棚の上の命題Ⅲ

 3. [Slide It In / Say a little prayer / Falling Uphill]

 最近、人づての力というものを考えるようになった。順を追って話そう。

 母からの唐突な問い詰めを受けたその日、僕は一発で具合が悪くなった。元々が不調の波に沈んでいたときのことだったから、そのショックはとりわけ来た。きつかった。このまま家にいては持たないと思ったので、うまくつかまりそうな友達に電話をかけて、その日のうちに会う約束を取りつけた。ちょうどそのしばらく前から気になるというか、考えていたことがあったので、少し誰かに相談してみようと思ったのだ。僕は昔から人にものを言わない人なので、こうして誰かに何かを相談するというのはわりにめずらしいことだったりする(いや、これでもカウンセリングを受けるようになって以降はだいぶ変わったんだけど)。
 考えていたことというのは、人づて絡みの話だ。知り合いのある人から、メルマガの編集長(みたいなこと)をやらない?と声をかけられていた。そういう話を持ちかけられていたのは去年の春ぐらいからのことだったのだが、いまいち気乗りがしなかったこともあって、なんやかんやと理由をつけて僕は逃げ続けていた。え、いや、ちょっといま余裕がないんで。
 でも秋頃からの不調もあったし、また、これからの自分の活動にさしたる展望も見出せないという状況が続く中で、僕は次第に、あれをやってみるのもいいのかもしれないと考えるようになった。なぜかはよくわからないけど、ただ何となくそういう気がしたのだ。こういう横からすっと入り込んでくる話って、あまり断ったらいけないんじゃないだろうか?
 その話をさっきの友達にしてみると、「やってみるのがいいんじゃない?」との返事。私がいまやってることだって、「○○さんやりませんか?」と言われて、断るに断れずに流されるようにして始めたようなものだしね。なんか自分でも「こんなんでいいのかなー」ってときどき思うんだけど、でもこんなものなのかなーってことも思うよ。まあいまのところは、そんな感じかな。
 僕から見ると、彼女は最近流れがいいみたいだ。そういうのは何となくわかる。前やってたバイトの方からもまた声がかかっているみたいだし、考えるより先に体が動くというか、いまの彼女にはどことなく追い風が吹いているような雰囲気がある。「モテる」という言い方をするとなんかあれなんだけど、でも、流れの良い人のところには話が集まるというのは実際あると思う。それに、僕にもいくつか経験があるけれど、ものごとが決まる時っていうのは、得てして当人が拍子抜けするぐらいあっさり決まるものなのだ。

 彼女ひとりだけでは何か話し足りないような気がしたので、続けてもうひとりべつの友達とも連絡をつける。それほど長い時間は取れないが、でもなんとかうまくつかまった。いまから思えば、あの日の僕はわりにツイていたのかもしれない。あるいはこういうのは、自分から何かを求めたせいだろうか。
 ふたり目の友達も、最近流れがいい人のひとりだ。もちろん人間だから日々いろんなことがあるし、気分の浮き沈みだって頻繁にある。人に見えないところでざっぱんざっぱん波をかぶっているのかもしれない。でも、トータルで言えば、この人はこの1年でずいぶん変わったと思う。1年前とは表情がまるで違うし、何かこう生き生きしている(たぶん本人はあまりよくわかっていないだろう。なぜなら、本人は本人であることにあまりに慣れすぎているから)。「霧が晴れた」という言い方を彼女は好んでするのだが、事実、そういうような雰囲気はかなり濃厚に漂ってくる。何がどうなって「霧が晴れた」のかは定かではないのだが、あるいはごく自然に、しかるべき時期がやってきたのかもしれない。しかるべき時期が、やってくる。
 彼女とはいろいろと話が通っていることもあって、自分の活動に対する徒労感というか、無力感・無意味感みたいなものについても話すことができた。正直自分では行き詰まっている。やってても意味ないんじゃないかとか、もうやめたほうがいいんじゃないかとか、あるいは結局のところ自分はどこにも辿り着かないんじゃないかとか、つまりそういうような話だ。

 この日話した結論のひとつは、「横からすーっと、もあり」だったと思う。
 たとえばこの人はいまの仕事に就くとき、知人の伝手でもって入っている。履歴書を持って面接を受けるのではなく、知人から「ゆり子さんうちでやりませんか?」と誘われて始めたのだ。いわば横からすっと入ってきた話をうまいタイミングで掴んだともいえる。
 同じことは彼女の同僚の凪さんについてもいえる(なんか女の人ばっかですみません)。凪さんの場合も、たまたまいまの雇い主と以前からの知り合いで、しかも希望していた方面の仕事が偶然その人のところにあったので、するするっという具合に話が進んで、去年の春からはそこでソーシャルワーカーとして働いている。まあ簡単に言えば、ふたりとも人づての力でもって、いまの仕事に流れついたわけだ。

 あるいはこれは、ただ単に僕が潔癖症で頭がカタイだけなのかもしれないが、たとえば「コネ」とか「紹介」というと、何かこう裏口から入るようなずるいやり方であるような感じがして、どことなく嫌なイメージがあった。裏口入学とかコネ入社とか、つまりそういう感じだ。でもそういう横から入った話ですっとやっている人たちを身近で見ていたら、「ああ、そういうのも全然ありなんだな」って思うようになった。すごく実感的に、フィジカルな具体例として。履歴書を持っての「正面突破」だけがやり方ではない。なにもそういうのにこだわらなくたって、ほかにもやり方はあるんだ。そしてそれと同じことを、ゆり子さんも言っていた。
 「いや、私も前は『正面突破』じゃなきゃいけないんだって思ってたよ。ずっとそう思ってた。ほら、ひきこもりの人ってどうしても正社員になるっていうのにこだわるとこあるじゃない。『とにかく正社員にならなきゃだめ、面接行って受からなきゃダメ』みたいなのがあってさ。でもさあ、私も最近になって気がついたんだよね。べつにそういう正面からのやり方にこだわらなくたって、隙間隙間でもじゅうぶん生きていけるんだって。いまの私みたいに、人からの紹介で仕事をはじめるっていうのも全然ありなんだって。それからいえば凪なんかもう、人づてだけでここまで来てる人だもんね。知り合いなんて誰もいないのに大阪からこっちへ来て、それでも人づて人づてでここまでやってきてるんだからさ。すごいよな。私もこの歳になってからなんだけど、正面突破ばかりが手じゃないんだってことにようやく気がついたよ。横からすっと人づてでっていうのもありなんだ。だからさっきのメルマガの話も、とりあえずしてみたら? 話したからといっていますぐには何も起きないかもしれないけど、でも話しておけば何かに繋がるかもしれないよ」。

 後日、凪さんから印象的な話を聞いた。凪さんは実はまだ自分の履歴書を出していないらしい。
 「私、履歴書書いたけどまだ出してないんよ。ここで働きだしてもう8ヶ月なんやけど、○○さん(彼女らの雇い主)別にいまだに何も言わんし。こんなんでええんかなーって、思うんやけどね」。
 この話はひどく象徴的だ。普通は面接をするときには必ず履歴書を持参する。いままでその人がどんなことをしてきたのか、どういう人なのか、ある程度は履歴書を見て判断される。でも人づてで横からすーっと入った場合は、あらかじめ履歴書に書いてあること以上にその人のことを知っているから、履歴書なんてものはそれほど必要ではないのだ。まったく要求しないのも極端だとは思うけど、なーんか、なるほどなあって、思った。


 凪さんについてもう少し。これはあくまで「僕から見ていて」ということなんだけど、凪さんが願ったことというのは、なぜか大抵のものが叶うように見える。たとえばそれは、都合の合うバイトであったり、いちど会ってみたい人であったり、職場につけるガスヒーターであったり、その他なんでもいいんだけど、でも彼女が「こんなことあらへんかなあ」と願うと、どういうわけか彼女の前にはうまい話がぽろんと落ちてくるのだ。
 もちろん打ち出の小槌ではないから、そんなに都合よく願ったことがなんでも叶うというわけではないし、何かが転がってきたところでそれが必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。でも傍から見ていると、彼女はなんやかんやでいろんな人と繋がって、人づてでするするとうまいこと渡っていってるように見える。ただ単に隣の芝が青く見えてるだけなのかもしれないけど、でもそれって、なんだかすごく羨ましい。
 いいなあ。なんで彼女はそんなに人づてでもってうまく渡っていけるのだろう? 凪さんと僕ではいったい何がそんなに違うのだろう? そんなことを考えるともなくぼやっと考えていたら、唐突にあるひとつの疑問に行き当たった。そういえば俺はいままで、凪さんみたいに自分の願いを口にしてきただろうか?
 答えはもちろん「ノー」だ。カウンセリングを受けはじめて以降はだいぶマシになったとはいえ、それでも僕は、自分の願いや思いを口にするということをいままであまりしてこなかった。欲しいものを欲しいと言えなかったし、好きなものを好きと言えなかった。人に甘えるということができなかったし、自分の気持ちを表にすることは恥ずかしいことだと思っていた。そしてそれは僕の中であまりにも日常化していたので、僕は長いこと、自分自身のその傾向に気がつかなかったのだ。

 そしてもうひとつ。これは僕がひとりっ子だったせいかもしれないが、きっと僕の中には、「まわりはみんな、自分の思いや願いをわかってくれているだろう」的甘えがあったのだと思う。それは「べつに言わなくてもわかるだろう」という、どこか驕りにも似た気持ちだ。しかし言うまでもなく、まわりの人というのはそんなに自分のことを気にかけてくれているわけではない。言っても、みんな自分のことだけで忙しいのだ。
 しかしそれにもかかわらず、ここ最近の僕は、一向に代わり映えのしない自分の現状や、まわりの人たちが自分より先に何らかの進展を得ていく(ように見える)やるせない現実を目の当たりにして、密かに面白くない気持ちを抱いていた。なんでまわりにはこれだけ動きがあるのに、俺ばっかりが……。口に出しこそしなかったけれど、そういう思いはずっと心のどこかにあった。
 しかしそれだって、いままで自分の思いを口にしてきたか否かの違いなのだろう。たとえばこれを飲み物の自販機でいえば、あれはお金を入れるからランプがついて作動するのであって、機械の前に黙って立っていても、それで取り出し口にゴトンと飲み物の缶が落ちてくるわけではない。なのに僕がいままでやっていたことというのは、自分からはなんの働きかけもせずにただ機械の前に立って、それで自分のところには何も落ちてこないと不平不満を述べていたのと同じことなのだ。それでは何かが起こるわけがない。

 話が少し流れるようだけど、大事なことなのでやはり書いておこう。親子関係の話だ。
 このまえ藤田直美さんの『レター』(CINEMA塾)という映画を観る機会があったのだけど、その中でいちばん印象的だったのは、親子のぶつかり合いというか、父と娘が激しく口論して、自分の思いのたけを言い合うシーンだった。「私はこういうふうにしてほしかった。こんなことをしてもらってうれしかった。悲しかった。好きだった。嫌だった……」。そういえば、うちにはああいう親子間の「伝え合い」があっただろうか。お互い伝え合い、わかり合おうとする意識や努力があっただろうか。家族みんなが、「きっと向こうはわかってくれているだろう」的ぬるま湯の中にいたんじゃないだろうか。こんなことを言ったら変かもしれないけれど、でも正直なところを言えば、僕はあの映画を観ながら、ひどく不器用ながらもまっすぐにお互いの気持ちをぶつけ合えている藤田さん父娘に、どこかで羨ましさを感じていたのだ。うちは彼女の家から見たらずっと穏やかで平和だったし、親子仲の良さではまわりに羨ましがられるぐらいだったけれど、でもああいう伝え合いがもっとあってもよかったんじゃないかって、いまでは思う。

 とりあえず願ってみる。言ってみる。望んでみる。たとえどんなにカッコ悪くて恥知らずであっても、きっとまずはいっぺん口にして、求めてみるべきなのだ。手を動かすより口を動かせ。そうすればきっと、何かが揺れる。そしてそれはおそらく、言霊の力だ。願いもせずに望むな。何かが欲しければ自分から動け。ゆり子さんと別れたあとの電車の中で、僕はそんなことを考えた。

 不思議なことは起こる。ゆり子さんとそんなような話をしたそのわずか3日後に、知人を介して、決して悪くはないかもしれない話が僕の前に転がり込んできた。ちょっとした仕事がらみの話だ。いや、正確には「仕事」といえるようなものではないのだけれど、でもまあ、そんなような話(なんじゃそりゃ)。その話がこれから僕をどこへ連れていくのかはわからない。結局何に繋がることもなしに終わるのかもしれない。そういう可能性だってじゅうぶんにある。
 でも僕は、その話がこれからどう発展するかということよりはむしろ(あるいはどう消えてなくなるかということよりはむしろ)、「自分の願いや希望はなるべく口に出していこう」と決めたその数日後に、何かが自分の前にぽとりと落ちてきたというその事実の方に注目したい。決してオカルトがかったことを言いたいわけではないのだが、でも僕はその事実の中に、やはり何か言霊の力のようなものを感じるのだ。
 そしてその話の流れで、僕はあれだけ目を背けたかった履歴書というものを、たぶん5年ぶりぐらいに書いた。やってみたら、どうにか書けた。もちろん、これからこの話がどうなっていくのかはまだかなり不透明なんだけど、でも今回の件については、それができただけでもじゅうぶんよかったんじゃないかと、自分では思っている。


 「ここ最近の下り坂の原因が、わかってきたような気がする」。この文章のはじめに、僕はそう書いた。もうそろそろ結論めいたものを書いてみてもいい頃だろう。
 ここ最近の下り坂の「原因」。それはおそらく、いままでの「仕事のことは脇にのけといて~」という対人関係重視路線の限界点の到来であり、またたぶん僕は、ぼちぼち網棚の上に置いた荷物を下ろすべき時期に差しかかっているのだ。
 そしておそらくはきっと、昨年秋からの不調や母からの唐突な突き上げというのは、その限界点の到来を知らせる一種の警告だったのだろう。この流れは地震と同じで、回避することはできない。遅いか早いかの違いはあるにせよ、それは必ずやって来る。深い音を立てて、大地の底から。あのときはわからなかったけれど、でもいまでは、そんな気がしている。
 ――などとカッコいいことを言ってみても、僕の目の前にある状況がそう簡単にがらりと転換するものではないことは、この僕にもある程度わかっている。残念だけど、何かをわかっていることと、それを目に見える形に変えていけるということは、また別の話なのだ。そのふたつがどちらも同じようにうまくこなせたなら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけれど。
 でも結局はここから始めるよりほかないんだろうなということも、何となくわかる。まあね、不満並べたってキリがないし、それに自分の人生というのは、ほかの誰かが代わってくれるというものではないからね。これは仕方ないさ。

 最後に挙げるのは、1ヶ月くらい前に凪さんからもらったメールの抜粋。ネット生活をはじめてもう7年ぐらい経つけど、その間もらったメールの中でもトップ5に入るぐらいにうれしかったやつ。僕はたまにこれを読み返しては、「流されてみるのもいいんかなー」なんて、思っている。少しずつ、少しずつ。
 「私は小さい頃からむちゃどんくさくって、なんやらかんやら人に助けられながら生き延びてこられたって感じなんよな。だから人づてでっていう発想も、私にとっては自然なものなんやと思う。その点、ゆりさんや君は、出来る・切れる→いい子→出来るって思われるっていうタイプなんやろうな。こんな風に人に弱みを見せられなくてずっとがんばってきたんかなぁって感じた。/かっこよくなんか生きられへんっていうのはず~っと実感として私はあるんよね。それがいま、結果としては救いになっているのかもね。/流されてみたらいいんやないのって思う。違うって思ったら、いつでもやめられるし」。

|

« 28.棚の上の命題Ⅱ | トップページ | 30.呪 [spellbound] »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15236/167579

この記事へのトラックバック一覧です: 29.棚の上の命題Ⅲ:

« 28.棚の上の命題Ⅱ | トップページ | 30.呪 [spellbound] »