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2004年2月

2004/02/28

スノボ

遠く帯広にてこれを書いてます。
たまたまホテルにネットが付いてたもんで。

今シーズンは今日が初滑りなのですが(遅っ)、
やっぱりなかなか楽しいねぇ。
当日の朝までは行くのめんどくさいとか朝がつらいとか散々ごねてるんだけど、
行ったら行ったできっちりやってしまうところが怖い。

でも、今シーズンはこれが最初で最後ってことになりそう。
趣味の欄のいちばんはじめにスノボをあげてる身としては
さみしいものがあるけど、まあしかたがない。
明日帰りま~す。

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2004/02/27

本日2回目の投稿です。まだ夜の2時なのに。

さっきチャンネルひねってたらBSマンガ夜話をやってた。
好きなマンガのときはたまに見てるんだけど、今日のはよくわからず。
でも、伊集院光が楽しそうに話してるのがやけに印象的だった。
本当にこのマンガが好きで好きで、目がキラキラしてた。
流れる言葉に全然澱みがない。

なんか、かっこいいなって思った。
デブだし、顔もお世辞にもハンサムじゃないし、なんかもうあれなんだけど、
でもいいなあって感じた。
ほとんど彼の独演会と化してたけど、でもそれは嫌な感じじゃない。
ハンサムじゃないだけに、いっそう際立ったのだろう。

ちょっとかなり、羨ましかった。

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野菜

ここ数ヶ月、家の事情で、月のうち半分は自宅でひとり暮らしをしている。
家事は問題ないんだけど、やっぱり食事のことがめんどくさい。
料理はあまり得意じゃないです。

で、最近何を食べてるかというと、やはりサラダ。
だいたい1日に大き目のサラダボウル1杯分ぐらいは食べる。
気がつくと普通にそれぐらいは食べてる。前はこうじゃなかったんだけど。

だいたい作るのは、レタスを半玉ちぎって、キュウリを切って、
ドレッシングをかけただけの手抜きのもの。
トマトを乗せることもあるけど、缶詰のツナをトッピングするのが
自分的にはやはりいちばんしっくりきます。
少しでいいから肉ものが入ってないと何かが単調なんですね。
食べてて飽きてしまう。

もっとも、最近は毎回のようにツナを乗せてるので、
バリエーションが少ないのが近頃の悩みなのですが。

そんなわけで、サイゼリヤのサラダは量が多くて安くてナイスです。
ちょっと手を焼くぐらいに多い。
それからたまに焼肉を食べたりすると、
最近は胃がもたれるようになってしまいました。
だから野菜もいっしょに食べるようにしてる。

まあ早い話が、歳を取ったってことなんでしょうけどね。
一応まだ20代なんだけどなあ。しくしく。

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2004/02/26

つっこ

どうにかこうにか、つっこ(天野月子)のチケを確保。

SHIBUYA-BOXXというのは、AXの近くにある小さめのハコなんだそうな。
キャパは400人ぐらいっていうから、かなり小さいですね。
自分の感覚ではチッタや、いまは無きブリッツぐらいがちょうどいいんだけど、
約々その半分てとこ。これはおいしいなあ。

で、ライヴ繋がりなんだけど、今朝の朝刊を開いたら、
ルチアーノ・パヴァロッティのリサイタル(というんだろうか……)が発表になってた。
「最後の来日公演」らしい。
「最後の」とは謳ってるけど、クラプトンみたく
「日本だけのスペシャルコンサート」とかいってまた来るんじゃないのー?
(↑意地悪)

ちなみにパヴァ様のチケットは、国際フォーラムでS席4万8千円。
以下、A席4万3千、B席3万5千、C席2万7千、D席1万9千円という各お値段。

そしてこれがサントリーホールになると、
S席8万5千(!)、A席5万、B席4万、いちばん下のC席が2万円となる。
そしてさらにその上に、プラチナ席/ゴールド席(パーティ付)があるんだと。

はあ。
ストーンズだってジョアン・ジルベルトだって、こんなにはしなかったぞ。
ヤンキースのS席2万8千円なんてまだまだかわいいもんだね。
まったく、どういう人たちが観に行くんだろう??
パヴァロッティよりも、その人たちの顔が見てみたいような気がする。

ちなみに、つっこは1枚4千円です。いや、そんなもんだよ。

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2004/02/24

きのうはお引越し

いや、自分じゃなくて。友達の。
それも本格的にじゃなく、その一部をお手伝い。
いままで引越しを手伝った経験がなかったので、
やってみたかったんだな。
大したことはしてないんだけど、いやいや、これは楽しかったです。

楽しいことというのはどれだけやっても疲れない。
それと反対のことというのは、どっと疲れる。やる前からぐったり疲れる。
そういうことを妙に感じた1日。
「楽しい」ってやっぱ大切だよ。なにごとにつけ。

さて、今日はクルマを見に行った。もちろん中古車。
いっぺんにたくさんのクルマを見たので、すっかりクルマあたりしてしまった。
けどおもしろかった。勉強になる。
勉強っていうのは本来楽しいもんです。当たり前だけど。

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2004/02/23

眠い。

ここ数日、朝7時就寝、同11時起床という日が続いていた。
睡眠時間が少ないはずなのに、なぜか夜眠れない。
昨日もまずいまずいとか思いながら、
朝の6時までベッカムの自伝を読み耽ってしまったのだった。

でもさすがに限界なのか、今日は早々と眠くなってきました。
よしよし。というわけで、ひと足お先に~。
(といっても、3時ぐらいに目が覚めて今日もまた……
 とかなったりして。ありそうだよな。怖いな)

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2004/02/22

無力

今日はとある集まりに参加しに都内まで行ってきた。
この手の場所に行くのは慣れてるつもりだけど、
それでもなんだか緊張してしまうワタクシ。

会合は興味深い話ができたし、
いろいろと勉強や参考になることもあってとてもよかったのだけど、
反面、自分がいかに井の中の蛙で無力でちっぽけなのかを
見せられたような感じもした。
なんだかなぁ、「無力」って感じがするんだなあ。
はぁ。

と、暗い話ばかりしていてもしょうがないので、きのうの続き。
印象的だったことのひとつは、講師のソーシャルワーカーの方の
「世の中というのは食物連鎖と相談の連鎖でできている」という言葉。
うーん、なんかそれっていなぁ。
どんどん相談してけばいいんだ。していいんだ。おっけいなんだ。

年末あたりからご相談モードに入って、おかげで少し落ち着いたというか、
「繋がり」ってうれしいなあと感じていたので、何かがすとんと落ちてきた。
相談ができる関係って、幸せだと思う。うん。

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2004/02/21

かたがき

今日はとある研修会に行ってきた。
青少年の心の問題に取り組むNPO等のスタッフ研修会というもの。

ショージキ何の肩書きもない自分がこういうところに参加して
いいのかなーという不安というか、心配はすごくあったのだが、
気持ちよく気安く参加することができてとてもよかった。

何人かの人にはその辺の悩みも吐露してみたのだが、
結局のところ肩書きはそんなに関係なくて、
素のままの自分を見てくれているというのがえらく嬉しかった。
まあどれだけ肩書きを並べて箔をつけてみたところで、
見る人が見れば大したことないっていうのはバレバレなんだよね。
そうやって自分を大きく見せたがる人ってたまにいるけど。

ただ、自分のことをよく知らないまったくの他人と知り合うときには
やっぱりこの肩書きというものがものを言うわけで、
やはりその辺での肩書き(自分の立場を定義するもの)に対する
憧憬みたいなものは捨てがたくあると思う。
なんか、こういうのはこれからもずっと続くんだろうなあ。

今日は早めに帰るとか家族に言っておきながら、
結局2次会→3次会まで行ってしまう。
ま、半分ぐらいはこれが楽しみだったんだけどさ。

ともあれ、ちょっとかっこええなあと思うような年上の人たちと話をするのは楽しい。
最近自分の中でのターゲットは30代前半から中盤、後半の人たちなんだな。
40過ぎでもかっこいい人たちはたくさんいるんだけど、
これからの自分のイメージということを考えたときにはやっぱりこの辺になってくる。
さすがに10以上離れてくるとちょっとイメージが湧きにくくなってしまうのです。
あ、もちろん、年下でも全然構わないんですが。

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2004/02/20

からだからだ

来週あたりにクルマを査定に出すので、何年かぶりに洗車をしてきた。
うーん、やっぱり意外ときれいになるもんだなあ。
中も軽く掃除したのでだいぶ見られるようになりました。
やっぱりきれいな方が、査定のときの印象もいいだろうし。

車を洗い終わったあとは、隣にあったバッティングセンターやら
ゲームセンターやらで身体を動かす。やっぱり運動は大事だ。
頭ばっかでものを考えているとどうもいかん。ねぇ。
エアホッケーなんてものも、久しぶりにやりました。
機械の調子が悪くてちょっといまいちだったけれど。

ところで今日、何がびっくりしたって、中村俊輔が結婚してたこと。
俊輔って結婚する(できそう)なタイプに見えないんだよなー。
俊輔に彼女がいるということ自体、どうもピンと来ない。
うーむ。

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2004/02/15

32.いまさらですが、NHKの番組について

 去年の12月に放送されたNHKの「サポートキャンペーン」の番組はなかなかおもしろかった。この番組を見るのはひさびさだったのだけど、内容的にも良かったし、2時間のあいだ退屈することなく見ることができた。僕のまわりでは「無理にまとめに入っている」など、いささか否定的反発的な意見が多かったみたいだが、それほど否定的に見るような内容ではなかったんじゃない?というのが僕自身の率直な感想である。そりゃあ1年間のキャンペーンの最後だもの、ある程度まとめにかかるのは仕方ないだろうと僕なんかは思うのだけど、そうでもないのだろうか。
 もっとも、僕が今回わりに好意的にこの番組を見てしまった背景には、もともとNHKの番組に期待していなかったという部分も少なからずあったと思う。いや、確実にあった。
 去年NHKでは、1月、7月、12月と、2時間枠を3回とって番組を放送したわけだが、期待満々で見た1回目は途中で退屈し、7月にあった2回目のやつは途中で寝た。とりわけ、夏から秋にかけての「働いていないことが問題、就労できればそれで解決」という伝え方にはひどくげんなりさせられた。
 もちろんこの問題において、就労が大きな要素であることに疑いの余地はない。疑いの余地はないのだが、しかしそれさえクリアされれば万事解決であるかのごとく伝えたあの姿勢は、あまりに短絡的で一面的なものだったと僕は思う。少なくとも公共放送が取る姿勢としてはいったいどうなのか。あれではある特定の援助機関が提示する「解決策」を無批判に取り上げて伝えただけと指摘されても、それほど文句は言えないのではないか。

 いや、過去のことはいい。12月の話に戻ろう。
 今回この番組を見ていて僕がいちばん惹きつけられたのは、当事者のことばの重さというか、リアリティみたいなものだったと思う。とにかく3人の当事者の語りがいちばんおもしろかった。話がうまいとか気の利いたことを言うとか地位があるとか本を出しているとか、そういったことはぜんぜん関係なくて、3人の語りからは、彼らが抱く悩みや葛藤や喜びの重さというか、言葉のリアリティみたいなものがずんずん伝わってきた。うまく言えないのだが、とにかく言葉に力があるのだ。
 それから言うと、スタジオに座っていた6人のうちでは、江川紹子のコメントがいちばん通りいっぺんで退屈だった。江川さんは良識的だし、決してずれたことを言っているわけではないのだが、しかし彼女のコメントは何かが平板だった。どうも当たりさわりがないというか、何かがぐっと来ない。足りない。べつに彼女はスタジオにいなくてもいいんじゃないかと思ったのは、おそらく僕ひとりではないだろう。
 これは何も自分が当事者の一員だからこう述べているわけではない。べつに「当事者」であるなしに関係なく、自分自身の存在を通して語られた言葉には、それがどのような人生であれ必然的に力が宿る。そうでないものにはそうではない。ただそう言いたいだけである。作家の石田衣良が番組の中で、「全身から出た言葉」という表現を使っていたけれど、要約してしまえば、当事者の語りの重さというか強さというのはその辺りに由来するのだろう。未整理なところから一生懸命汲み出されたものには、人を打つ力がある。

 以下、順にVTRに出てきた3人の方の印象を書いてみる。なぜいまになってこんなことをしているのかは、自分でもよくわからない。
 まずひとり目の、中村俊輔に雰囲気が似た彼について(ごめん、名前を失念)。VTRに出てきた3人の中では、彼が僕といちばん状況が近いというか、シンパシーのようなものを感じた。彼なら友達になれそうだな、と思ったぐらい。
 まずあの部屋の雰囲気が近い。一戸建てで、2階の洋室。部屋の作りも感じも、僕の部屋と雰囲気が似ている(ただしあんなに景色は良くないし、あんなに片付いてない)。彼が外の世界に繋がる第一歩となったのは榎本ナリコのファンサイトだったようだが、榎本ナリコ好きという時点でもうビッときました。そういうところは見逃しません。それからナディアのビデオだかが置いてあったのも○。僕はほとんどアニメは見ない人だが、ナディアは実にまさしく正解です。はい。
 それと本棚に目を移して、アレン・ギンズバーグ関係の本が置いてあったのには興味を惹かれた。というのは、ディランやらパティ・スミスあたりが持っている本質的なパンクないしプロテスト精神みたいなものの源流を辿っていくと、どうもギンズバーグやビル・バロウズやジャック・ケルアックといった一連のビート詩人たちに行き着くんじゃないかというのが、ここ最近僕が考えていたことだからだ。
 このビート詩人たちや50年代のカウンターカルチャーについては、映画『ビートニク』を見るとだいぶいいみたいなのだが、あいにく僕はあまり映画というものを見ない人なので、ビート詩人たちについて何か知ってるんだったらおしえてもらいたいなあなどと、安直に思った次第。どうして彼がキンズバーグの本を読んでるのかというのも、僕としては興味のあるところ。
 ただし、彼の望むような「100%のコミュニケーション」というのはうまくわかってはあげられないだろうなあとは思う。そもそも僕はコミュニケーションでつまずいたクチではないので、どうもその辺はあまりピンと来ないのです。はい。

 ふたり目の栃窪さんについては、親子関係、特に父親の存在の大きさというものを感じさせられた。お父さんはああ見えて優しい人のようだけど、やっぱり父親の存在は大きいのだなあと。 
 もっとも印象的だったのが、食卓でお父さんと面と向かって話すところ。あれは本当にエネルギーの要る作業だったろうなあとしみじみ思う。なかでも、栃窪さんがお父さんよりも先に食卓の椅子にかけた場面は特に印象深かった。ああして退路を断つことで自らをあの場に閉じ込めるようにでもしなければ、彼はとてもあの場にはいられないのだ。あの小さな行動の中に、「今日こそどうにかしたい/どうにかするぞ」という彼の差し迫った思いや覚悟のほどが一瞬垣間見えたような気がする。そしてきっと、あれだけのことができたということは、あの人の中にそうするだけのエネルギーが、誰知らぬうちにしずしずと溜まっていたということなのだろう。まあなんにせよ、あの場面は迫力があった。

 3人目の光安香織さんは、歳が離れていることと、性別が違うせいか、3人の中では自分からいちばん遠いような印象を受けた。彼女がまだ二十歳で、比較的早いうちに立ち直ったということもその一因かもしれない。長期化していないというのはやっぱり大きいと思う。
 でもだからといって、彼女はひきこもりの範疇には入らないだとか、彼女が経てきた苦しみが取るに足らない小さなものだったなどというバカげたことを言いたいわけではない。全然ない。こういうのはこもっていた期間の長短の問題ではないと思う。
 光安さんの話で僕がリアリティや力を感じたのは、おじいさんの「死にたくない」という言葉が彼女を後押ししたというところ。ああいうのはすごいね。人が生きる(死ぬ)っていうのはすごいことなんだなあとあらためて考えさせられる。「自分で自分を殺しちゃいかんな」なんて言葉は、そう簡単には吐けないですよ。
 それから、彼女がご両親と向かい合うシーンも劣らずに強力だった。これから両親と話すという時に、香織さんは犬を抱きながら部屋に入っていたけれど、しんどい話をする時にはああすることでうまくワンクッションを入れることができるわけで、やはりこういうところはペットの効用だなあということを考えたりもした。もしあの場面でワンちゃんがいなかったら、香織さんとご両親の会話はもう少し困難なものになっていたことだろう。うちの場合もなんだかんだでだいぶ猫には助けられているので、そういうところにはどうしても意識が行ってしまいます。やっぱそういう部分ってあるんだよね。うん。

 ん、なんか妙に長くなってるぞ、ヘンだな。正直NHKはどうでもいいし、べつにこれを書きたいわけじゃなかったんだけど……。まあいいや、今回書けなかった「本題」についてはまた次回。ではでは。

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2004/02/13

ファーストキッチン

みなとみらい線に、乗ってみた。
エスカレーターを降りて降りて、地下深くのホームにたどり着く。
さすがに新しくて清潔で、電車もカッコいい。
でも、初乗り180円はどうかと思うぞ。
横浜駅は妙に複雑なことになっていて、わけがわからなかった。

話変わって、
天野月子の新しいアルバムが出ていたことにいまごろ気づく。
しかも3月のライヴのチケットも取り損ねた。バカだ……。
とりあえず近所のレンタル屋に行ってみたが、
生憎アルバムは貸し出し中。まあ、置いてあるだけいいとするか。
なんか聴く前から今年のベストになりそうな予感。蝶よ鮫よ。

それから、これは知ってる人はあまりいないと思うけど、
今月、TESLAの10年ぶりのニュー・アルバムが出るそうです。
やったね。待ち焦がれたよ。タイトルは“Into The Now”。

再び話は変わって、きのう道ですれ違った女子大生の会話。
「えー、あたしマックよりファッキンの方がいいんだけどー」
まあそうなのかもしれないけど……。でもね。

どおでもいいけど、明日はヒマだぞ。

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2004/02/08

31.猫の幸せ

 先日、母が家の近くで猫の死体を発見した。死体で発見されたのは、うちのまわりでよく見かけたグレーの可愛らしい猫だった。首輪をしていたのでどこかの飼い猫らしいということまではわかっていたのだが、どこの家で飼われているのかまではわからなかった。うちの向かいの家はなんとなく近所の猫の集会所みたいになっているので、ベランダから眺めていても、近所の猫たちがちょろちょろしているのがよく見える。その子は僕もよく見かけた。飼われているせいか、わりに人なつっこくって、うちにもよく餌をねだりにきていた。
 母がその子の死体を見つけたのはうちからすぐ近くの道路わきだった。道路といっても住宅地のなかにある狭い道路で、場所によっては車1台分ぐらいの広さしかない。ただその道はちょっとした迂回路みたいになっているので、狭いわりには車はよく通る。中には結構なスピードでぶっ飛ばしていくバカも少なからずいる。すぐそばには小学校もあるので、時間によっては運転していて結構気をつかう道路だ。
 道ばたで死体を見つけた母はいつまでもそうしているわけにもいかないので、とりあえずその子を毛布にくるみ、飼い主が誰かを調べてからその人が住むアパートへと運んでいった。飼い主のおじさんは最初何のことだかわからず、しばしきょとんとしていたようなのだが、徐々に事情が飲み込めてくると人目を憚ることもなく大声で泣き出し、それからしばらくするとうちにスコップを借りに来て近所の公園にその子を埋めに行った。彼はその子のほかにもう1匹猫を飼っていたのだが、死んでしまったほうの猫は2匹の中でもよくなついていたほうだったらしい。もう1匹のほうもよく見かけたけれど、たしかに死んでしまった子のほうが可愛らしかった。毛並みもきれいだったし、その前の日には近くの草むらにその子が駆け込んでいくのを目にしたばかりだった。きのうはあんなに元気だったのに……と思うと、どうしてもやるせない気分になってしまう。

 奇妙だったのは、その死んでしまった子の姿である。僕は直接見ていないからあくまで母からの伝聞なのだが、体には目立った外傷もなく、ただ鼻というか口の辺りから血を流していたという話だ。死んでいた場所から考えれば、走ってきた車に轢かれるなりぶつかるなりしてしまったと考えるのが妥当な線なのだが、それにしては目立った外傷がないというのはどうも変だ。車に轢かれたのであれば当然それとわかるような傷や痕が残るだろうし、急に飛び出して車の側壁にぶつかったのだとしても、口や鼻から血を流しているだけというのは何か不自然な気がする。母と二人で変だね変だねとしばらく話していたのだが、そのとき不意にイヤ~なことが頭をよぎってしまった。毒殺である。

 猫に限らず犬でもそうだけど、世間には犬嫌い・猫嫌いの人が少なからず存在する。数年前には餌に毒を混ぜて近所の犬を何匹も殺してしまったという事件も報道された。動物好きにしてみれば「なんて酷いことを……」となるのだが、残念ながらそれくらい動物を嫌っている人がたくさんいることもまた事実である(もちろんそれがいけないというわけではないし、糞尿の始末をきちんとしない飼い主にも大いに責任はある)。また、実際にそういうことまではしなくとも、いつかそうしてやりたいと密かに心に思っている人ならもっとたくさんいるかもしれない。
 実際、いまうちで飼っている猫をもらってきたときには、里親の人にそのあたりのことをうるさく注意された。外に出してはいけない。車だけでなく、猫エイズなどの病気を持っている猫もたくさんいる。外に出さなくても予防接種は必ず受けること。それにいちばん怖いのは人間だ。世の中には猫嫌いの人もたくさんいるし、中には毒を盛って殺してしまうような人だっている。中学生が猫を捕まえて土の中に埋め、尻尾を切ったり足を切ったりしながらじわじわとなぶり殺しにするという話も聞かされた。さすがにそれはちょっと極端なんじゃないかと話を聞きながら僕は思ったけれど、しばらく前には子猫を少しずつ殺していく様子を写真に撮って2ちゃんの掲示板に流すというブタ野郎が現れたぐらいだから、こういう話もまんざらありえないことではないわけだ。

 ともかく、その猫が毒を盛られて殺されたという可能性は否定できないもののように思えた。うちの近所は猫好きが多いからしょっちゅう近所の猫がちょろちょろしているし、それだけ数が多ければ、猫嫌いの人がそっと餌に毒を混ぜたということも考えられなくはない。ちょっと弱めに毒を盛っておいて、それを食べた猫が苦しみながらしばらく歩き、最後に力尽きて倒れたところがたまたま道路のそばだったと考えれば、道端で倒れていたことにも一応の筋道は立つ。口と鼻からしか血が出ていなかったことも、そう考えればそれなりの説明がついてしまう。
 もちろんそれはあくまでひとつの仮説でしかないし、いまとなってはそれを確かめる術なんてない。あるいは最初に考えたとおり、ただ単に車にぶつかって死んでしまっただけのかもしれない。でも母の見た現場の状況から考えれば、毒殺説を否定しきるだけの根拠もないように僕には思えた。もっともいまとなっては何を言ってみたところですべては土の中だし、本当のことはもう誰にもわからない。残ったのはスコップについた土と、近所にそういう人が住んでいるのかもしれないという薄ら寒い予感だけ。

 うちでは2年ほど前から猫を1匹飼っているが、里親のきつい言いつけもあって、外には出さずに完全室内飼いにしている。狭い家の中でしか生活できないなんて可哀相だとは思うけれど、街なかの住宅地に住んでいる以上やむを得ない。だからうちの猫は生まれてこのかたほとんど家の外に出たことはないし、自分でえさを捕ることだってできない。えさは自分で捕るものではなく人間にもらうものだと思っている。外の世界のことなんてなんにもわからないし、もし何かの事情で外におっ放り出されてしまったら、いくらもしないうちに野垂れ死んでしまうことだろう。
 自分でえさを捕ることもままならず、家から外に出ることもないなどというのは猫として不自然だとあなたは言うかもしれない。正直に言えば、僕だってそういうふうに思わないことはない。自由に外を走り回って獲物を捕って、蚤にまみれつつも好きなときに好きなところに行って、自立して生きる方が猫としてよほど自然なのではないかと思う。
 でも、言っておきたいのだけど、野良というのは決して楽ではないのだ。
 よく「猫っていうのは気楽でいいよね、好きなときに起きて好きなときに寝て、何に縛られることもなく自由に生きられるんだからさ。生まれ変わったら猫になりたいよ」みたいなことを言う人がいるが、現実はそんなにお気楽なものではない。外の世界には自動車や人間をはじめ、身の危険になるものがたくさんある。夏は暑さに耐え、冬は寒さに凍えなければならない。雨が降れば小さな体を濡らしながら空が晴れるのを待たなければならないし、雪が積もればひたすら寒さに震えなければならない。栄養状態が良くないからおしなべて身体は小さいし、猫どうしの縄張り争いで傷つくこともある。ときにはその傷が致命傷となって短い命を落とすことだってある。飼い猫の寿命が十数年あるのに対し、野良の寿命は平均で5年前後といえば、彼らがどれほど過酷な世界に生きているのかおおよその見当はつくと思う。つまり、一見気ままに暮らしているように見える彼らが得ている「自由」というのは、そういう代償を引き受けた上で得られる小さな自由のことなのだ。言うまでもないことだが、彼らの住む世界にはこたつもなければクーラーもないのだ。こたつで丸くなれるのは飼い猫だけに許された特権である。

 さて、うちで飼っている猫(「だいず」 オス・3歳)だが、狭い家の中しか知らないわりには、特にこれといった不満もなく暮らしているように見える。あるいはそれはただ単に飼い主のひいき目に過ぎないのかもしれないが、でもそう見える。近所の野良たちに較べると図体ばかりがでかくて、外の世界を生きていることが醸し出すタフさなんてものはかけらほども見当たらないけれど、その代わり目立った傷もなければ毛並みもきれいだ。なにより、人間に対して警戒心を持たない。人間の前では平気で腹を見せてゴロゴロと喉を鳴らし、そのうち何の警戒心もなく伸びきった手足をぴくぴくさせながらぐるんと丸くなって寝てしまう。食べ物にも不自由しないし、身の危険だって感じない。エサをほかの猫に取られる心配なんて全然ない。見てるとすごく幸せそうである。
 たしかに彼は外の世界のことを知らないわけだが、でもそのことで特段の痛痒を感じているようには見えない。たまにベランダから外の景色をじっと眺めていることはあるにはあるけど、だからといって「脱走」して外に出て行こうとするわけではない。まあ彼にとっては、世界というのはほぼこの家の中だけで完結しているようなものだから、外に出れなくて辛いも何もないのだろう。知りもしないものを欲しがるなんてことは、誰にもできないのだから。

 うちで飼っている猫はだいず1匹だけだが、うちに遊びに来るというか、餌をねだりに来る猫が1匹いる。名前は「クロ」といって、以前は近所で飼われていたのだが、その後捨てられて野良になった黒猫である。
 うちのだいずは「お友達」が来ると嬉しいらしく、クロが来ると喜んで網戸越しにへばりついて、飽くこともせずにじっとクロの姿を眺めている。クロはクロでだいずになんか興味はなくて、窓越しにじっとこちらを見つめて、ただ辛抱強く餌がもらえるのを待っている。向かい合った2匹の思いはかくのごとくまるで噛み合っていないのだが、しかし傍から見たら、たぶんこれはちょっと絵になる微笑ましい光景だと映ることだろう。「窓越しに見つめあう冬の猫たち」みたいな感じで。
 でも、網戸越しに顔を合わせているクロとだいずの姿を見ていたら、なんだかこの薄っぺらな網戸一枚が、恵まれた者とそうでない者との間に横たわる冷徹な壁を象徴しているように僕には思えた。ほんとに世の中っていうのは、つくづく不公平にできてるんだ。彼らを隔てているのは薄っぺらい網戸1枚でしかないけれど、しかしその両側にある世界の差は決して小さくない。その片側にいるのは食べものを探してあちこちを徘徊する痩せた黒猫であり、その向こう側にいるのは、飽食に慣れた世間知らずのお坊っちゃん猫なのだ。まったくいったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 「猫の幸せって何だろう」ってことをたまに考える。外の世界をしぶとくしたたかに生きている方が猫として自然なような気もするし、家の中でぬくぬくと過ごしている方が幸せなような気もする。厳しくとも自立している方が幸福な気もするし、窮屈でも気楽な方がよほど幸せなような気もする。どっちだろう、正直よくわからない。
 だからたまにうちの猫に向かって、「だい、おまえは恵まれてるんだぞ! クロには屋根もなければゴハンもないんだから。野良の子たちはいまごろ、猫団子になって凍えてるんだから」ってなことを言ってみるのだけど、もちろんこいつはそんなことなんにもわかってない。むしろ「ボクはいぢめられて不幸なんだ」ってな顔をしてる。まあ、それも無理はないんだけどさ。だいたい僕にしたって、そんなえらそうなことを言えた義理じゃ全然ないしね。彼の前では言葉は乾く。そしてそんなふうにして僕は、今日もまた変わることのない1日を過ごしている。

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2004/02/07

お詫びと訂正

 この連載も、このまえの<呪>でついに30回を迎えました。迎えたついでに、ちょっとした裏話というか、お詫びと訂正を。
 僕はこの場所を借りて連載を始めるにあたって、ふたつの決め事をしていました。その決め事というのは、

 1.ひきこもりそのものについては書かない
  (できたら「ひきこもり」という単語自体を出さない)
 2.頭だけで考えたものは書かない。
   必ずいちど身体を通過させたものを書く

 の2項でした。
 でも1.については、今年に入ってあっさり反古になっちまいましたね。なるべく書くまいと思ってたんだけど、そうも言ってられない状況になってしまったので。いやはや。
 まあ今後しばらくはこの単語は出てこないとは思いますが、何はともあれお詫びと訂正まで。

 2.については、いまのところ守られていると思います(えーと、たぶん)。
 頭だけで考えたものというのは、どうしても観念的で頭でっかちなものになってしまうし、どんなに練られたものであっても、身体を通していないものというのは文章に力が出ないので、どうも好きじゃないのです。まあそれは僕がメンドクサイ専門用語を知らないからっていうのもあるんだけれど……でもね。
 それと、これは前にもべつのところで書いたことだけど、そうやって頭だけで考えることならひきこもっているあいだにじゅうぶんこなしてきた(つもり)なので、どうもそういうのって嫌なんであります。なんかもういいよって思う。なぜか拒否反応。その手の文章は評論家さんたちにまかせておけばいいです。はい。

 それからこれはこないだ書いた呪の話の補足。
 この界隈から抜けたい抜けたいという気持ちはずっとあるんだけど、でも無理に引きちぎるようにしてしまったら、これはこれでいかんのかな、なんてことも考える。無理にもぎ離すと何かが残ってしまうというか。こういうのはむしろごく自然に、「もういいや」っていうか、こういうのに関わることが苦痛になって離れていくっていう方がいいのかな、などとも思ったり。そういうのをなるべく大切にしていきたいなあ。まあするってえと、「引退宣言」をするのはまだだいぶ先になっちゃうのかもしれないけど。ううううう。弱った。

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2004/02/02

30.呪 [spellbound]

 岡野玲子の『陰陽師』という漫画がある。陰陽師・安倍晴明を主人公にした漫画で、原作は夢枕獏の同名小説。テレビになったり映画になったりして一時期かなり話題になったから、記憶にある人は多いと思う。
 この漫画の単行本第1巻(全12巻中第11巻まで既出)の中に、晴明が友人の源博雅に向かって、「名とは呪(しゅ)である」と語るシーンがある。話の内容からすれば、そこは特段大きな場面というわけではないのだが、しかしどういうわけか、僕はそのシーンのことが気になって仕方がない。僕がこの漫画の中でいちばん好きなのは、あるいはこの場面かもしれない。

 「なあ博雅……、この世で一番短い呪とは何だろうな」
 「この世で一番短い呪……? しかし何でおれが考える? おまえが教えるべきじゃないか?」
 「さっき言ってやったろう? 名だよ」 
 「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か?」
 「そう。山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ」
 「たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる。この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないとも言える」
 「難しいな。おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか?」
 「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」
 「だが博雅はおれだぞ。博雅がいなくなればおれもいなくなるだろう?」
 「…………。眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」

 5年以上も前。
 僕がひきこもっていた時、自分にとっていちばんきつかったのは、自分の状態が何なのかわからないということだった。自分でもまずいとは思っていた。自覚はある。しかしいまの自分の状態が定義できない。一種の精神病なのだろうかとも考えたし、単なる怠けなのかもしれないとも考えた。いろいろと考えてはみたが、それでも自分の状態がわからなかった。地図もなければ磁石もなく、方向も名前もないという混沌の中。だからこそ僕は、なんとか自分の体勢を立て直そうともがき、より深く後悔と反芻の世界を漂った。いまの自分の状態はいったい何なのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。早く何とかしなければ。でも結果的には、僕は考えれば考えるほどわからなくなり、そしてそのうち、僕は考えるのをやめた。すでにその頃には、考えることもできないくらい消耗していたから。
 そしてそんな消耗にほとほと疲れきった頃、僕は偶然、「ひきこもり」という言葉に出会う。はじめは自分には関係のない他人事だと思っていたのだが、いろいろと本を読んで調べるにつれて、もしかしたら自分はこれなんじゃないかと思うようになった。この本に書かれていることというのは、まるで自分のことみたいじゃないか。そういう感覚は、それまでに読んだどのような本からも得ることのできない種類のものだった。

 振り返ってみれば、あそこで通院を始めたことが自分にとっての大きな転機だったのだと思う。通院を転機にして、それ以降いろんなことが良い方へ良い方へとまわりはじめた。信頼できる援助者たちに出会い、同じ悩みを抱えた人たちの集まりに顔を出すようになり、親の理解を得ることにも成功し、そしてたくさんの友だちもできた。もちろん僕の精神状態は急カーブを描いて快方へと向かった。
 これは以前から述べていることだけど、医師から「ひきこもり」という名前を与えられたあの時点で、僕の悩みは半分解決したのだと思う。なぜって、いま自分がどこにいるのかわかれば、どっちに向かって歩けばいいのかもわかるから。言うなれば、自分を定義する言葉を与えられたあの時点をもって、僕はそれまでのひきこもり生活から抜け出すことに成功したのだ。これはいまでもそう思っている。

 しかしものごとというのはそんなに簡単ではない。
 あれから4年半。このひきこもりの問題から早く抜けたいと願いながら、ずるずるといまだにこの問題にかかずらっている自分がいる。いつまでたってもここから離れることができないし、また、まだしばらくのあいだはここから抜けられないであろうことも予感している。たぶんきっと、このひきこもりというのは僕にとって一生ついてまわる問題であり、また結局のところ、自分はここからしか出発できないのだろう。そういうことも、薄々ながら自覚はしている。
 しかしそうではあっても、いつまでもこの場所に縛りつけられたままの自分を、そしていつまでも次のステージに移行できずにいる自分を見ていると、「いったい自分はいつまでここに居ればいいんだろう?」といった疑問や焦りが頭をもたげてくる。どうして自分はいつまでもこの界隈から離れられないのだろう、なぜこんなにもひきこもりに典型的な悩みをいまもって引きずっているのだろう。それはここ数年間――特にここ最近の僕にとって、かなり切実な問題だった。まったく、こんなの全然笑えた話じゃない。

 名前を与え、付与すること。
 僕はずっと、あそこで「ひきこもり」という名前を与えられたことは自分にとって救いだったと思っていたのだけれど、でも最近になってようやく気がついた。たしかにあれは自分にとってひとつの救いではあったけれど、しかし同時に、それは呪いでもあったのだと。医師にそんなつもりがなかったことは僕にもよくわかっているが、でも結果的に見れば、彼は僕にひきこもりという呪をかけ、僕という人間の根本的な在様までをも縛ったのだ。言霊の力というのは恐ろしい。
 僕はいまの担当医に出会えたことをとても幸運で幸せだったと思う。でもときどき、「うちの主治医も罪なことをしてくれたものだよなあ」などと思ったりもしている。その人から名前を奪うのは残酷なことだけど、ある意味においては、名を付与することもまた、それと同じくらい残酷なのではないか。まあそんなことを言ってみても、これは仕方がないんだけどさ。

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