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2004/02/15

32.いまさらですが、NHKの番組について

 去年の12月に放送されたNHKの「サポートキャンペーン」の番組はなかなかおもしろかった。この番組を見るのはひさびさだったのだけど、内容的にも良かったし、2時間のあいだ退屈することなく見ることができた。僕のまわりでは「無理にまとめに入っている」など、いささか否定的反発的な意見が多かったみたいだが、それほど否定的に見るような内容ではなかったんじゃない?というのが僕自身の率直な感想である。そりゃあ1年間のキャンペーンの最後だもの、ある程度まとめにかかるのは仕方ないだろうと僕なんかは思うのだけど、そうでもないのだろうか。
 もっとも、僕が今回わりに好意的にこの番組を見てしまった背景には、もともとNHKの番組に期待していなかったという部分も少なからずあったと思う。いや、確実にあった。
 去年NHKでは、1月、7月、12月と、2時間枠を3回とって番組を放送したわけだが、期待満々で見た1回目は途中で退屈し、7月にあった2回目のやつは途中で寝た。とりわけ、夏から秋にかけての「働いていないことが問題、就労できればそれで解決」という伝え方にはひどくげんなりさせられた。
 もちろんこの問題において、就労が大きな要素であることに疑いの余地はない。疑いの余地はないのだが、しかしそれさえクリアされれば万事解決であるかのごとく伝えたあの姿勢は、あまりに短絡的で一面的なものだったと僕は思う。少なくとも公共放送が取る姿勢としてはいったいどうなのか。あれではある特定の援助機関が提示する「解決策」を無批判に取り上げて伝えただけと指摘されても、それほど文句は言えないのではないか。

 いや、過去のことはいい。12月の話に戻ろう。
 今回この番組を見ていて僕がいちばん惹きつけられたのは、当事者のことばの重さというか、リアリティみたいなものだったと思う。とにかく3人の当事者の語りがいちばんおもしろかった。話がうまいとか気の利いたことを言うとか地位があるとか本を出しているとか、そういったことはぜんぜん関係なくて、3人の語りからは、彼らが抱く悩みや葛藤や喜びの重さというか、言葉のリアリティみたいなものがずんずん伝わってきた。うまく言えないのだが、とにかく言葉に力があるのだ。
 それから言うと、スタジオに座っていた6人のうちでは、江川紹子のコメントがいちばん通りいっぺんで退屈だった。江川さんは良識的だし、決してずれたことを言っているわけではないのだが、しかし彼女のコメントは何かが平板だった。どうも当たりさわりがないというか、何かがぐっと来ない。足りない。べつに彼女はスタジオにいなくてもいいんじゃないかと思ったのは、おそらく僕ひとりではないだろう。
 これは何も自分が当事者の一員だからこう述べているわけではない。べつに「当事者」であるなしに関係なく、自分自身の存在を通して語られた言葉には、それがどのような人生であれ必然的に力が宿る。そうでないものにはそうではない。ただそう言いたいだけである。作家の石田衣良が番組の中で、「全身から出た言葉」という表現を使っていたけれど、要約してしまえば、当事者の語りの重さというか強さというのはその辺りに由来するのだろう。未整理なところから一生懸命汲み出されたものには、人を打つ力がある。

 以下、順にVTRに出てきた3人の方の印象を書いてみる。なぜいまになってこんなことをしているのかは、自分でもよくわからない。
 まずひとり目の、中村俊輔に雰囲気が似た彼について(ごめん、名前を失念)。VTRに出てきた3人の中では、彼が僕といちばん状況が近いというか、シンパシーのようなものを感じた。彼なら友達になれそうだな、と思ったぐらい。
 まずあの部屋の雰囲気が近い。一戸建てで、2階の洋室。部屋の作りも感じも、僕の部屋と雰囲気が似ている(ただしあんなに景色は良くないし、あんなに片付いてない)。彼が外の世界に繋がる第一歩となったのは榎本ナリコのファンサイトだったようだが、榎本ナリコ好きという時点でもうビッときました。そういうところは見逃しません。それからナディアのビデオだかが置いてあったのも○。僕はほとんどアニメは見ない人だが、ナディアは実にまさしく正解です。はい。
 それと本棚に目を移して、アレン・ギンズバーグ関係の本が置いてあったのには興味を惹かれた。というのは、ディランやらパティ・スミスあたりが持っている本質的なパンクないしプロテスト精神みたいなものの源流を辿っていくと、どうもギンズバーグやビル・バロウズやジャック・ケルアックといった一連のビート詩人たちに行き着くんじゃないかというのが、ここ最近僕が考えていたことだからだ。
 このビート詩人たちや50年代のカウンターカルチャーについては、映画『ビートニク』を見るとだいぶいいみたいなのだが、あいにく僕はあまり映画というものを見ない人なので、ビート詩人たちについて何か知ってるんだったらおしえてもらいたいなあなどと、安直に思った次第。どうして彼がキンズバーグの本を読んでるのかというのも、僕としては興味のあるところ。
 ただし、彼の望むような「100%のコミュニケーション」というのはうまくわかってはあげられないだろうなあとは思う。そもそも僕はコミュニケーションでつまずいたクチではないので、どうもその辺はあまりピンと来ないのです。はい。

 ふたり目の栃窪さんについては、親子関係、特に父親の存在の大きさというものを感じさせられた。お父さんはああ見えて優しい人のようだけど、やっぱり父親の存在は大きいのだなあと。 
 もっとも印象的だったのが、食卓でお父さんと面と向かって話すところ。あれは本当にエネルギーの要る作業だったろうなあとしみじみ思う。なかでも、栃窪さんがお父さんよりも先に食卓の椅子にかけた場面は特に印象深かった。ああして退路を断つことで自らをあの場に閉じ込めるようにでもしなければ、彼はとてもあの場にはいられないのだ。あの小さな行動の中に、「今日こそどうにかしたい/どうにかするぞ」という彼の差し迫った思いや覚悟のほどが一瞬垣間見えたような気がする。そしてきっと、あれだけのことができたということは、あの人の中にそうするだけのエネルギーが、誰知らぬうちにしずしずと溜まっていたということなのだろう。まあなんにせよ、あの場面は迫力があった。

 3人目の光安香織さんは、歳が離れていることと、性別が違うせいか、3人の中では自分からいちばん遠いような印象を受けた。彼女がまだ二十歳で、比較的早いうちに立ち直ったということもその一因かもしれない。長期化していないというのはやっぱり大きいと思う。
 でもだからといって、彼女はひきこもりの範疇には入らないだとか、彼女が経てきた苦しみが取るに足らない小さなものだったなどというバカげたことを言いたいわけではない。全然ない。こういうのはこもっていた期間の長短の問題ではないと思う。
 光安さんの話で僕がリアリティや力を感じたのは、おじいさんの「死にたくない」という言葉が彼女を後押ししたというところ。ああいうのはすごいね。人が生きる(死ぬ)っていうのはすごいことなんだなあとあらためて考えさせられる。「自分で自分を殺しちゃいかんな」なんて言葉は、そう簡単には吐けないですよ。
 それから、彼女がご両親と向かい合うシーンも劣らずに強力だった。これから両親と話すという時に、香織さんは犬を抱きながら部屋に入っていたけれど、しんどい話をする時にはああすることでうまくワンクッションを入れることができるわけで、やはりこういうところはペットの効用だなあということを考えたりもした。もしあの場面でワンちゃんがいなかったら、香織さんとご両親の会話はもう少し困難なものになっていたことだろう。うちの場合もなんだかんだでだいぶ猫には助けられているので、そういうところにはどうしても意識が行ってしまいます。やっぱそういう部分ってあるんだよね。うん。

 ん、なんか妙に長くなってるぞ、ヘンだな。正直NHKはどうでもいいし、べつにこれを書きたいわけじゃなかったんだけど……。まあいいや、今回書けなかった「本題」についてはまた次回。ではでは。

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