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2004/06/27

40.制服と服装について

 去年の年の暮れ――たしか12月の28日だったと思うけど――僕は年末のGAPのバーゲンに出かけて、柄にもなくタートルネックのセーターを選んでいた(ずいぶん前の話ですいません)。
 結局「これ」と思うものがなくて何も買わなかったのだが、タートルネックのセーターを買いに行ったというのは、僕にとってかなり画期的ないしは、ほとんど「あり得べからざる」と言ってもいいくらいの出来事だった。なにしろ僕はそれまで、ハイネックのセーターなんてものを着たことはただの一度もなかったのだから。そう、僕は生まれて初めて襟付きのセーターというものを買いに行ったのだ。わざわざ電車賃を払って、ごった返す師走の街中を歩く苦労をおしてまでして。

 なんでまた急にそんなキャラでもない行動に出たかといえば、もうそれほど若くもないんだし、少しはまともな恰好もできるようにならなきゃな、自分の中の引き出しを増やして幅を広げなきゃなということを考えるようになったからだ。いつまでも学生やサーファーみたいなカッコだけじゃいられないんだ。スーツとかその手のフォーマルなものは昔から大っ嫌いだけど、でもある程度はそういったものとも折り合いをつけていかなきゃこれからやっていけないのだろう。ちょっとした個人的理由もあって、去年の12月頃からそんなことをぼんやり考えるようになった。
 いや、べつに「いますぐスーツ一式を揃えたい」なんていうふうには思っていない。全然思っていない。スーツは苦手だ。でも、一種のセミフォーマルみたいなものとして、限りなくカジュアルに近いセミセミフォーマルとして、たとえば黒のタートルネックの上にダークカラーのジャケットを羽織って、下は黒のジーンズぐらいの恰好はできてもいいんじゃないかということを思うようになったわけだ。それはたとえば、中田英寿がやるみたいに。ハイネックのセーターを手に取ってずっと長いこと悩んでいたというのは、そういう文脈のうえでの話である。

 ところで、どうして僕はそういうフォーマルなカッコがダメなのだろう? スーツが嫌いで、襟の高いセーターが嫌だったのだろう? よくわからない。ただひとつはっきりしているのは、そういう傾向は昔から確実にあって、まだ小さな子供のときからそういう「ちゃんとした」服が苦手だったということだ。実際、僕の記憶にあるだけでも、すでに3歳か4歳ぐらいのときから、襟のある服や前ボタンで留めるもの、ワイシャツやジャケット(親戚の結婚式とかで着せられるよね)、幼稚園の制服といったものすべてがダメだった。たぶん縛られる感覚が嫌だったのだろうが、正確な理由はいまでもよくわからない。あるいは生まれつきそうだったのかもしれないが、そういうものが先天的に決まるものなのかというと、これはこれで、自分としてもけっこう首をひねってしまうところがある。

 大昔のことはさておき、学生のときの話。
 学生の頃は制服が嫌いだった。学校の制服なんてなくなってしまえばいいのにと思っていた。だいたい意味がわからない。んなもんなくたっていいじゃないか。そんなわけで、当時から制服のない学校に通っている人が羨ましくて仕方がなかったし、大学に入っていちばん嬉しかったことは、これからは私服で登校できるということだった。べつに私服に凝っていたわけではない。ただ制服がないということが嬉しかったのだ。

 縛られるものが苦手なのはいまでも同じ。前ボタンの服や襟のある服を着るのがどうもダメだし、ポロシャツなんて1枚も持っていない。携帯を持つようになってからは腕時計もしなくなったし、指輪もネックレスもしない。ミサンガもだめ。その手のものが一切苦手なのだ。もちろん小学校の名札なんて大嫌いだった。サッカーシャツだって、襟のついたやつには捨てがたい抵抗感がある(ゆえに、最近の襟付き回帰路線は苦々しいというのが正直なところ)。
 襟付きはともかく、ハイネックのセーターぐらいならいいじゃないかと言われるかもしれない。でも、首を締めつけられる感覚がダメで、これもまったく着なかった。なにしろこないだの冬まで、同じ理由でマフラーをしたことがなかったぐらいである。最近ようやくにしてマフラーを巻くようになったのは、単に首が痛くて寒いからという、きわめて実用的な理由からだ。なんだかなぁ、齢を取ったってことなんかなぁ。

 僕のことを直接に知っている人にはあらかた想像のつくことかもしれないが、葬式のときを別にすれば、この数年、スーツなんてものは着ていない。あれを着てるとなんだか身分を詐称してるような気分になるし、それ以上にあの窮屈さがストレスでかなわない。前に就職活動でスーツを着ていたら、ある日鏡に映った自分がひどく小さく見えたという話を書いたけれど、やっぱ基本的に自分には似合わないんだと思う。慣れとかどうとか、そういう問題じゃなくて。
 世の中にはスーツを選ぶのが何より好きという人たちがたまにいるけど、そんなわけで彼らの感覚や気持ちというのは、僕にはてんで理解できない。就職活動のときの窮屈な思いをいまだに消化できずに引きずっているのかな。ともかく、あんなものは着ないで済むのならそれで済ませたいと思っている。ほんとにね、勘弁してくれって感じ。まあ好きでスーツを着ている人なんて、実際はそんなにいないのかもしれませんが。

 制服ついでに、AVの話をしよう(どないやねん)。
 僕は昔から、アダルトビデオの「制服もの」に興味がなかった。あるいはコスプレものというのか。まったく、あんなもののいったいどこが良いんだろう? セーラー服、ブレザー、女教師、OL、秘書、ナース、メイド、ウエディングドレス、レースクイーン、えーと、それから何があったっけ……。はっきり言って、全部クソだ。あんなものを見て欲情するなんてよくわからない。べつにすっぽんぽんでええじゃないかとかなり真剣に思う。したがって当然、「出血大制服」とか「やりすぎ家庭教師」とか「コスプレ○○」なんてものは、僕にとってはまるでお呼びじゃないわけだ。
 なぜ「制服もの」に興味が持てないのかなんてことは、ずっと考えもせずにいたのだが(ふつう考えないよね)、でも、どういうわけかある時ふと考え込んでしまった。そういえばどうして自分はこの手のものに興味がないんだろう? なんでああいうのが好きじゃないんだろう? 冗談ではなく、ひどく大まじめに。

 制服というものは、それを着る人の社会的立場を表すものである。いわく、私はマクドナルドの店員です。高校生です。医者です。看護師です。警官です。駅の係員です。ウェイトレスです……。いろいろあるけれど、実用的な観点から見てあの服装にどれだけの意味があるのかというと、僕はいささか首を傾げてしまう。もちろん消防隊員の消防服とか、医者の手術服みたいなものは話が別だけれど、純粋に実用的な意味あいにおいて着られる制服というのはそれほど存在しないんじゃないか、世の中の制服の大半にとっての意味というのは、その人の所属や役割を示すことなんじゃないか、と僕は思っている。
 んで、考えた。制服全般が苦手だということは、突きつめてみれば、僕という人間は社会で与えられる役割を忌避している、ひいては、社会そのものを拒否しているということになりはしないだろうか? ガキっぽい言い方になるけど、何者かであることよりは、何者でもないことを欲しているのかもしれない。「拘束されるのは嫌だ。自由でありたい」みたいに。でもなんか、これじゃまるで頭の悪い中学生みたいだな。まあべつにいいけどね。

 あの12月の時点で僕は、もう少し大人になろう、引き出しを増やそうなんてことを試みたわけだが、あれから6ヶ月が経過した時点でどうなったかといえば、あのときの思いは雲散霧消、気持ちの端にかすかな引っかかりは残しつつも、一時の気の迷いとしてどっかにすっ飛んでしまった。うん、やっぱそういう窮屈な格好はダメだわ。現にこれを書いているいまも、短パンにノースリーブというカッコで(外に出るときはサンダルで)、たらたらとパソコンに向かっている。やっぱ、ここが自分の居場所なのかもしれない。このほうがくつろげるしね。

 しかして、こんなことでこの先いったいどうなるのだろう? これは何気に結構重症なことなのではあるまいか? 
 僕の知人のひとりは、「(それじゃ)デザイナーとかになるしかないよね~、サラリーマンにはなれないよね~」ということを笑いながら、しかし妙に断定的に述べてくれるのだが、たしかにそうかもしれないなということをわりに深刻に実感しないでもない。うーん、どうも好みがうるさいというかわがままというか現実がわかってないというか不器用というか生まれつき社会から外れている(misfit)というか何というか……。
 こういうのはあまり心あたたまる結論とは言えないけれど、しかし実際、この世で自分が生きられる領域というのはそれほど多くないのかもしれない。

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