« 捻挫のときは安静に | トップページ | 1ゴール1アシスト »

2004/10/31

54.クラクラ

 2週間前のことですが、渋谷のBunkamuraミュージアムでグッゲンハイム美術館展を見てきました。美術展に行くのは久しぶり。一時期行くときは行ってたのだけど、そういえば最近は何気にご無沙汰だった。最後に見に行ったのは、やはりBunkamuraであったフリーダ・カーロの展覧会かもしれない。そういえばあれはいつだったっけ? 赤坂ブリッツにパティ・スミスを見に行った日の近くだから、もう1年以上前というところか。うわ、それはいくらなんでもブランク長すぎる。ちょっと反省。こんなことでは感覚が腐ってしまうではないか。まったくいったいなんだって、齢をとるとこんなにも早く時が経つのだろう?

 さて、グッゲンハイムの感想:
 予想以上に良かった。あんまり期待しないで行ったせいかもしれないが、思ったより見るべきものが多かったような気がする。特に20世紀に入ってからの抽象画にいくつか良いのがあった。画家の名前はよく知らない。どうも最近のというか、現代美術みたいのには弱いところがあって、それとなく敬遠してたんだな。とはいえ、食わず嫌いはやはりいかんなあ。今回それをあらためて認識。日ごろ頭ではわかっているつもりなんだけど、実際の行動面となるとなかなかねぇ……気持ちがついていきません。そういうのに強い友だちをひとりふたり抱えておくとそこはだいぶ違うのだろうけど、しかしそんなこと突然言ってもねぇ……友だち少ないですから。ま、友だちというのはある日突然自分のとなりに現れるものではなく、やはり自分から作っていく努力をしていかなければできないものなんだというのは、こないだある人が言っていたことなんですが。いやはや、まったくもっておっしゃるとおりで。頭ではわかっているつもりなんですけど。

 いつもより時間をかけてグッゲンハイムを見たあとは、なんとなく惰性で渋谷のブックファーストへ。ここはなんだか落ち着く。好き。渋谷店がどうのこうということではなくて、ブックファーストというお店全体が。なぜこの阪急系の本屋が好きなのかということは、「関西の私鉄では阪急がいちばん好き」ということに関連して、自分では自分なりになかなか興味のあるところなのだが、それについて書き出すとあと1,2本は楽に書けてしまうので今回は割愛。いっちゃん好きな本屋はこのブックファーストと旭川にある冨貴堂MEGA、あとは横浜そごうにある紀伊国屋書店ということだけ書いて終わりにします。いきなり旭川の本屋が出てくるっていうのも、それはそれでかなり唐突な表明なんだろうけれど……。

 で、気軽に入ったその渋谷のブックファースト。
 1階に雑誌のコーナーがあるのだが、ここ最近の習性というか習慣というか、先に女性向けファッション誌のコーナーを見てしまう。が、そこで驚き。ふつうの書店に並んでいる雑誌なら大概のものはフォローした気になっていたのだが、なんとなんと、知らない雑誌がたくさんあるではないか。ガッチョ~~ン。
 とはいっても、ちょっとモード系入ってるというか、やや専門性の高い(?)ものがほとんどなのだが、それにしてもこれにはいささか唖然。ああ自分ってなんて傲慢だったんだろう。ちょっとかじっただけでわかったような気になっていたんだ。やはり身の程知らずであるということをここで再認識。
 しかしファッション誌に限らず、こんなにたくさんの雑誌があっていったいどうするんだ? 誰が読むんだ? 出版不況とかなんとか言ったって、これだけたくさんの選択肢があったらわけがわからなくなるのは道理じゃないかと思う。見ているだけで頭がクラクラしてきます。ほんとに、いったい誰が読むんだろう??

 雑誌コーナーをあとにすると、今度はとなりの新刊本コーナーに移動。うぎゃあ、ここにも魅力的なものが山ほどあるではないか。つい目移りしてあれもこれもほしくなる。よしもとばななと新作も気になったまままだ買ってないし、河合香織の『セックス・ボランティア』も読んでない。なるべくそういう魅力的でキケンなものは視界に入らないようにして移動するのだが、その先には新刊の文庫本コーナーが目に入ってしまう。そしておおっとそこにはなんとなんと、糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞の本』が文庫になって出ているではないか。ずーっと気になったまま、そのうち読もう読もうと思いながら、しまいに記憶の片隅に放置されてしまっていたやつ。これは買いだ。超即買い。590円の出費。そしてまたこういうときにかぎって、ニック・ホーンビィの新作が出ていることに気づいてしまう。こんどのは小説ではなく、音楽に関するエッセイ集だったのだが、この人はなんといっても音楽ベースなので、これも当然迷わず買いである。ちょっと読んだけど内容がまた良い。これも『ほぼ日』と一緒にレジ行きリストの中に並ぶ。さっきリストに混ぜた雑誌2冊と合わせて4冊、これだけで早くも2千円近い出費である。ああまったく、いったいなんてこった。家にはまだ読んでない本が雑誌が、何十冊という単位で待機しているというのに……。村岡清子の『僕たちは絶望の中にいる』も読んでなければ村上春樹の『アフターダーク』だって読んでない……。きっとこういうのは死ぬまで治らないんだろうな。根拠はないけど、何となくそんな気がする。こういうのは一生もんなんだ。とほほ。

 1階のワンフロアを見ただけでこんな有り様だから、当然2階以上には行かない。というか、人の多さ、物の多さ、そして選択肢や情報の多さにすっかり参ってしまって、すでにふらふら状態である。一種の人あたり(物あたり)といえば近いだろうか。選択肢が多いというのはそれはそれで素晴らしいことだとは思うけど、しかし良い面ばかりではないというのも一方の事実だ。選択肢がないからこそ迷わずに悩まずに動けるということだって世の中にはある。こういうのってつくづく罪つくりだ。
 しかしながら、こういう都会特有のレベルの高さというのは嫌いではないんだなあ。憧れる。ハードルを下げられない、降りられない。もっと上に行きたい。それが正直な感想。だから渋谷には行きたいようでもあり、行きたくないようでもある。アンビバレント。

 明快なる事実:
 渋谷にでも出れば、きれいな人なんていくらでもいる。モデルや芸能人と見紛うような人だって珍しくない。なんにつけてもそうだけど、都会というところはレベルが高い。行きかう人の姿も、物も、情報も、建物も、すべてが高く輝いて見える。もちろんそれがすべてほんとだとは限らないし、そのことは頭ではわかっているつもりなのだけど、でも較べちまう。比較しちゃう。「あの人たちに較べて自分はどうなんだろう?」「まだまだ足りないんじゃないだろうか?」「いや、きっと足りないにちがいない」「自分は劣っているにちがいない」。半ば馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、僕はその比較から逃れることができない。たまに行く静岡の田舎にいれば、そんなことはクソほども気にならないというのに……。まったくこれはいったいどうした作用なのだろう……?

 宮台真司がこんなことを言ってた。ちと長いけど引用してみる。

 自己充足的ではない人間が明らかに増えていると思う。もっと正確に言うと、こういうことじゃないかな。昔は選択肢がなかったから、選択の余地がなかった。昨日あるように今日があり、今日あるように明日がある。だから選択能力は問われなかったし、「自分が不幸せなのは、選択能力がないからだ」なんて考える必要もなかった。
 でも、いまはなまじ選択肢があって、幸せ不幸せが、自分の選択能力如何にかかっていることになっている。その結果、いろんな不全感の責めを自分に負わせてしまう。まわりを見るとダメじゃない人たちがたくさんいるような気がして、劣等感を刻印され、ますます不全感が高まる。「自分のせいだ。自分がダメだからだ」という気持ちが強くなる。
 そうなると、なかなか自己充足的な方向にいけない。逆にいえば、昔の人が、別にセルフ・コンテントに生きられる能力があったわけじゃないと思う。単に昔はそういう時代だったというだけの話でしょう。昔だったら、俺だけが不幸だなんて思うのは単なる馬鹿だったからです。
 (中略)
 昔の人が偉かったんじゃない。本人に力があったからということじゃない。「選択肢はない。これをするしかない。まわりだってそうだ。これをすることに喜びを見いだすしかない」という風に思えたし、そう思うしかなかったんです。
 でも今は「これしかない」なんて、誰だって思えないでしょう。「自分次第ではどうにでもなるはずだ。だってまわりを見ろよ。他のことやってる連中ばかりじゃないか。結局、俺ができないというだけなんだ」となっちゃう。

 はっきり言って、宮台真司って好きじゃない。むしろキライだ。でも彼の観察にはときどき、本当に「はっ」とさせられることがある。
 ほんと、選択肢の問題って大きいよね。まあ、そんなことを言いたててみてもどうしようもないのですが。

|

« 捻挫のときは安静に | トップページ | 1ゴール1アシスト »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15236/1825176

この記事へのトラックバック一覧です: 54.クラクラ:

« 捻挫のときは安静に | トップページ | 1ゴール1アシスト »