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2006/02/26

孤絶のスプートニク

『スプートニクの恋人』を再読。
村上春樹の小説の中でもこれはあまり好きではない方の
部類に入るのですが、突如として読み返したくなりました。
この小説を読み返すのはこれで2回目。


『スプートニク』については、
これがいささか実験的な要素を持つ中編小説だということもあって、
ファンの中でもあまり評判は芳しくないようですが、
それを特に顕著にしているのが最後の2章だと思われます。
簡単に言うと、最後の2章はいらないのではないか、
なぜあんなものがくっついているのか。
そして最後にすみれが戻ってきたのは事実なのか、夢なのか。
その辺の論議の問題だと思う。


sputnik-s


今回どうしても読みたくなってしまったのは
その最後の2章の中でも、より「いらない」とされる
15章(最後から二番目)でした。「にんじん」君が出てくる章です。
明らかに全体の流れから逸脱している部分。


きっとやや「問題のある」小学生が出てきて、
それに教員である主人公が熱心につきあい寄り添っていく
という部分が自分を惹きつけたのではないかと。
べつに生徒の母親と×××(好きな言葉を入れてね)ってことではなしに。


こないだ行った学校のクラスで
始業前に生徒どうしのトラブルがあって、
そのうちの片方の子が泣いてじっとうずくまったまま
授業に参加しないという出来事がありました。
75分の連続授業のあいだ、
彼はずっと教室の端っこにうずくまったまんま。
まだ若くて経験の浅い担任の先生(男・25歳ぐらい?)は
ほぼつきっきりでその子のそばについて
慰めたり一緒に授業に入るよう説得したりを繰り返していました。
それでもその子のからだは千歳の岩のように硬く動きませんでした。
きっと彼には彼なりのプライドがあったのでしょう。


最終的にその子は(いつのまにか)顔を上げて
クラスの通し演劇を眺めてあれこれコメントを述べるまでになったのですが、
家に帰ってからも小学校の先生というものについて考えてしまって。
ずーっと子どもと触れ合っているという点では楽しそう、
でもあまりにも密着しているという点では明らかに大変。
子どもとの程よい距離、家族との程よい距離。
我々のような臨時ボランティアだからこそ見えるもの。
密着したクラス担任だからこそ見えないもの。そしてその逆。
そんなことについてあれこれ思い悩んでしまいました。


最初はその部分「にんじん」の章だけつまみ食いで読もうと思ったのですが、
結局いつものとおり全編つき通しで読んでしまうはめになり……。
すみれのような人について、
あるいはすでに失ってしまった(失いつつある?)人たちのことについて。
本当に大切なもの、自分から離れていく人たち。
そして変わることのない「せつなさ」の問題について。


深いねこの小説。案外。
まあ読み方ひとつによるのですが、
意外にこの小説は自分にとって大きいものなんだなあと
いうことを初めて認識しました。いやー、実に意外よ。
交わることのない孤独な人工衛星のモチーフは
昔から大好きではあったのですけれど。

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